「ヨナの怒り」
2020年11月8日 降誕前第7主日礼拝
説教題:「ヨナの怒り」
聖書 : 旧約聖書 ヨナ書 4章1-4節、9-11節(1447-1448㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
皆さん、預言者という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?神から選ばれた存在、人々に対して神からのメッセージを伝えるメッセンジャー、彼らが伝えたメッセージが王、諸侯、そして民衆にとって都合が悪い事なので迫害された人たちでしょうか。また、エリヤ、エレミヤ、エゼキエル、イザヤといった具体的な預言者の名前を思い浮かべられる方もおられるかもしれません。この書にでてくるヨナという人物も旧約聖書の時代に活躍した預言者の一人でした。
しかし、このヨナという人物は神に従うという点であまり感心できない預言者でした。神がヨナを召し出した時、彼は神から逃げようとしました。その事はヨナ書1章1節から3節に書かれています。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」
主が呼んでいるのに逃げるなんてヨナという人物はひどい預言者だと非難されるかもしれません。しかし神に召された人が神に従うという点で感心できない行動を取ることは聖書でしばしば見受けられます。例えば、モーセが神から召命を受けた当初その召命を断ろうとしたこと、ダビテのバテシバとの過ち、弟子ペトロが人に聞かれて3度主イエスを知らないと言い、主イエスを拒否したことなどがあります。そして、ヨナには主のご命令を拒否する事情がありました。それは主がヨナに対して宣教しなさいと言われた地がニネベという都市だということです。ニネベという都市はアッシリア帝国の首都でした。当時アッシリア帝国は軍事強国で周辺諸国を制圧し、残虐であったと言われています。ヨナとは別の預言者ナホムはニネベを「獅子の住みか」「流血の町」と呼んでいます。さらに、その当時のイスラエルの人々の間には自分たちは神に選ばれた人々であるという意識がありました。当然、預言者ヨナもイスラエル人であり、この考えを持っていたと思われます。この考えを持ったヨナがわざわざ残虐なアッシリア帝国の首都であり、預言者ナホムが「獅子の住みか」「流血の町」と呼んだニネベに行って宣教するなどありえないことだったに違いありません。このように考えるとこのヨナの主から逃れる行動も理解出来ます。
しかし、主にはご計画があり、いくらヨナが拒否しようと主から逃れることは出来ません。ヤッファでタルシシュ行きの船に乗ったヨナを襲ったのは主が送った大風でした。海は大荒れとなり、船が今にも沈みそうになり、船乗りたちはパニックになり、自分たちの神々を呼ばわりましたが、ヨナは船底で眠っていました。船長がヨナの所に来て、この大風の中で今にも船が沈みそうなのに眠っているヨナに憤り、自分の神を呼ばわり助けを求めるように言いました。その後ヨナを含め船に乗っていた人々の間で誰のせいでこの災厄に襲われたのかを決めるくじ引きをし、それがヨナに当たりました。ヨナは主から逃れてこの船に乗ったことを人々の前で告白しました。人々は恐れを抱きつつ、この海を静めるためにはどうしたらよいかとヨナに訊ねたところ、ヨナは彼らに自分の手足を捕らえて海に放り込めば、海は静まるだろうと言い、人々がそのようにすると、果たして海は静まりました。一方、手足を捕らえられ、海に放り込まれたヨナを主は大きな魚に呑み込ませられましたが、ヨナが魚の腹の中でこれまでの行動を悔い改め、主に祈りを捧げると主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させた。ヨナが主に捧げた祈りがヨナ書2章3節から10節に書かれています。素晴らしい祈りですので後で読まれたらよろしいかと思います。
悔い改めたヨナに再び主はニネベに行き、主の言葉を伝えよと言われました。ヨナは主に従いニネベに行き、三日かけて「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」という主の言葉を伝えました。ニネベの人々はヨナの宣教により悔い改めました。王を始めとする身分の高い者も低い者も粗布をまとって、灰の上に座り、断食をしました。王と大臣たちの名によって出された断食の命令がヨナ書3章7節から9節に書かれています。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
この命令はとても厳しい内容です。人だけでなく、家畜にまで断食をさせています。しかし、それだけに神に対して真摯に悔い改めをするというこのニネベの住民の姿勢が見て取れます。神はこの住民の悔い改めをご覧になり、ニネベに下そうとしていた災いを取りやめました。
ここでこの話が終われば、まずまずの展開ですし、ハッピーエンドだと思うのです。ヨナは最初に主からの命令に逆らい、主から逃れようとしましたが、主に捕らえられ、悔い改めました。そして主のご命令どおり、主の言葉をニネベの住民に伝え、住民が悔い改めました。事実、子供たちなどに聞かせる紙芝居のヨナの話はここで終わることが多いのです。私も昨年、神学校の夏季派遣でこのヨナの話の紙芝居をしましたが、ここで終わりました。しかし、実際の聖書のヨナの話はここで終わりません。それが、本日の聖書箇所です。
ヨナ書4章1節を御覧ください。「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。」とあります。ニネベの人々は悔い改め、悪の行いを捨てました。本来であれば、これは喜ぶべきことであるはずです。預言者の役割とは主の言葉を預かり、その言葉を民に伝え、民を悔い改めに導き、神に立ち返らせるものです。しかし、ヨナにとってこのことは不満であったということです。なぜでしょうか?彼は未だに主の言葉通りにニネベの住民が暴虐であり、アブラハムの子孫である自分たちイスラエル人とは違い神から選ばれた民ではないので救われるべきではないと考えていたのかもしれません。もしくは、彼が伝えた「四十日後に都が滅びる」という主の言葉が実現しなかったせいで、彼が恥をかいてしまったと思ったのかもしれません。ヨナが怒った理由がいずれであっても、神の御心からは程遠いと言えます。
次の2節になるとヨナは不満を詳細に主にぶつけます。興味深い事は意図してではないかもしれませんが、このヨナの詳細な不満の中で主を賛美する言葉が出てくるのです。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」
主はこの不満をぶつけるヨナに対して4節でこう言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 ヨナは都を出て小屋を作りその中に座り、都に何が起こるかを観察し始めました。このことからもヨナの不満が相当なものであったと思われます。なんとしても、ニネベが災厄に見舞われるところをこの目で見たいというヨナの願望を見て取れます。主はとうごまの木を生えさせ、成長させ、都を観察しているヨナの上に日陰を作ったので、ヨナは喜びました。しかし、主は虫にその木を食い荒らさせたので、その木は枯れてしまいました。さらに、主は熱い東風を吹き付けさせ、太陽もヨナの頭の上を照りつけたので、ヨナはぐったりしてしまいました。そしてその事で、主に対して怒りを燃やします。しかし、9節で主はヨナに対して質問されます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」それにたいするヨナの答えは「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
主は10節、11節でこのようにいいます。ヨナが自分で育てることもせずに生えたとうごまの木ですら惜しんでいるのであれば、十二万人以上の人と家畜が住んでいるこのニネベを主が惜しまないわけがないと言われます。
ヨナの不満、怒りとは自分たちが神に選ばれたという事、暴虐のかぎりを尽くしたあのソドムとゴモラの住民のようなニネベの人々は災厄に見舞われても当然であるという事、そして自分が言ったことが実現せず面目を潰されたという事から来ているのではないでしょうか?極めて人間的であるのですが、私達もまたこのヨナのようにこれらの思いにとらわれてしまう事がないでしょうか?そしてこれらの思いにとらわれ怒りを燃やすことは主の御心ではない事はおわかりになられるかと思います。もし私達がヨナのような思いに捕らわれた時、今一度主からヨナへの言葉
「お前は怒るが、それは正しいことか」(ヨナ書4:4)を思い起こしてみましょう。
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