「ラザロの復活」
2020年10月4日 10月第1主日礼拝
説教題:「ラザロの復活」
聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書 11章38-44節(190㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスがこの地上での宣教活動をなさっていたとき、様々な奇跡を行われました。水をぶどう酒に変える、病人を癒(いや)す、悪霊に憑(つ)かれている人からその悪霊を追い出すなどです。しかし、今回の死んでいたラザロを生き返らせるという奇跡は主イエスがなさったどの奇跡よりも際立っていると思われます。
話はマリアとその姉妹マルタの兄弟であるラザロが病気になり、彼女たちが主イエスの所に使いをやり、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(ヨハネ11:3)と主イエスに伝える所から始まります。しかし、それに対する主イエスの行動はとても奇妙です。その知らせを聞いてからも二日間その場所に滞在していたからです。(ヨハネ11:4-6)私達が想像する主イエスはこのラザロの所に向かいすぐにでも出発すべきではないかと思うのですが、そうではないのです。なぜでしょうか?姉妹たちが伝えた事が間接的すぎて、彼女たちの兄弟のラザロを癒して欲しいという願いを主イエスが汲み取る事が出来なかったのでしょうか?もしくは主イエスがマリアとマルタの姉妹たちそして彼女たちの兄弟であるラザロを愛していなかったのでしょうか?主イエスが彼女たちの願いを誤解していたということはないと思われます。主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ11:4)と言われたからです。主イエスは「ラザロの病気が死ぬ程の病気ではないので私がラザロの所へ行かなくても大丈夫だ。」と言われているのではありません。それでしたら、「神の栄光のため」「神の子がそれによって栄光を受ける」の意味が繋がりません。そして、主イエスがマリアとマルタの姉妹たちそして彼女たちの兄弟のラザロを愛しておられたことは「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11:5)ことからも解るかと思います。
どうして、主イエスはすぐにラザロの所に向かわず、二日間もその場所に滞在したのでしょうか?それは主イエスが死んだラザロを復活させるためでした。さらに言うならば、主イエスが死んだラザロを復活させることによって神の栄光を受け、その事を人々が目撃するためでした。
主イエスはその後、「もう一度ユダヤに行こう。」(ヨハネ11:7)、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」(ヨハネ11:11)と言われました。さらに、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」(ヨハネ11:14-15)と言われました。
人間的に見れば、主イエスの行動は問題があるかもしれません。
なぜなら、マリア・マルタの姉妹たちにとってラザロは大切な兄弟であり、少しでも早く主イエスに彼の病気を癒してほしいと願っていたに違いありません。そして、主イエスは病気を癒す力があるのに来られないで、ラザロが亡くなってから来られるのですから彼女たちが悲しみ嘆くのも当然のことかと思います。
実際、マルタは主イエスが来られた時、最初に主イエスに非難めいた事を言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)マリアもまた彼女の姉妹マルタと同じことを主イエスに言いました。(ヨハネ11:32)しかし、神には神のご計画があり、それは人には計り知れないものであることを私達は解らなければいけないと思うのです。たとえそれが、私達の目にはどんな理不尽であり、不愉快なことであるとしても。その中にはいまだ終息を見せない新型コロナウィルスがあります。当教会でもそのために当初よりもさらに対策をするようになったのは皆さんもご存知かと思います。また、いい意味で私達には計り知れないこととして本教会の新会堂建築があったということもまた皆さんご存知と思います。良い事も悪い事も含めて神は計り知れないご計画を持っており、その事は私達には普段隠されているのですが、私達はその事に反発したり、喜んだりしながら日々の生活を送っているのです。
さて、主イエスが弟子たちと共にラザロの所に着いた時、何を感じたのでしょうか?彼はマルタとマリアから非難めいた発言を受けられました。そして、彼女たちそして彼女の周りにいたユダヤ人たちも泣いておりました。ラザロの死、彼の姉妹たちと周りにいたユダヤ人たちの悲嘆、嘆き、悲しみがその場所に充満していました。これは主イエスが望まれたことでしょうか?そうではないと思います。だからこそ、主イエスが33節でこの死と絶望と悲しみに支配された状態に憤られたのだと思います。35節では主イエスは涙まで流されています。
本日の聖書箇所に入っていきます。38節です。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」とあります。なぜ、主イエスは憤られたのか?前節の37節である人がこの様に言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかった。」ここに絶望があるのです。主イエスはこの絶望に対して憤られたのです。38節の「墓は洞穴で、石でふさがれていた」、39節の主イエスの「石をとりのけなさい」という言葉に対するマルタの「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」という発言にも死、絶望の匂いがします。しかし、主イエスはこれらとは真逆の方です。主イエスが表すのは栄光、復活、命です。主イエスご自身が「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ11:4)と言われ、「わたしは復活であり、命である。」(ヨハネ11:25)と言われました。そして、主イエスは父なる神を全く信頼し、ラザロを復活させ、この死、絶望、嘆きを打ち破ったのです。(ヨハネ11:41-43)このラザロの復活で主イエスが受けられた栄光はこれから主イエスが辿られる十字架の死への道と復活による栄光へと続いていきます。私達の目の前にどのような理不尽で困難な状況が迫ってきて、この姉妹たちのように嘆き、悲しんでしまうかもしれません。しかし、私達には栄光、生命、そして復活の主イエスが側におられるということを忘れてはいけません。
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