「三日で神殿を建て直す」
2020年9月27日 9月第4主日礼拝
説教題:「三日で神殿を建て直す」
聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書 2章13-22節(166㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
昨日は素晴らしい献堂式を行う事が出来とても嬉しく思っております。教団理事長の江上 環先生に献堂祈祷を捧げていただき、説教をしていただきました。教団主事の土肥 努先生に感謝祈祷を捧げていただきました。南浦和教会のラディト・ファウスト先生に祝辞を述べて頂きました。江上先生そして土肥先生は共に本教会に牧師がいなかった時、この教会を支えていただいた先生であり、土肥先生は今でも私の後見人としてサポートしていただいております。また南浦和教会の教会員の方々は本教会が建て替えの間、礼拝の場所を提供して頂きました。このような先生に昨日の献堂式を担っていただいたことに感謝しております。また、この会堂を建築していただいたペテロ建設 小林専務も来られ、そしてなによりも本教会の教会員である皆様方が来ていただき、様々な奉仕をしていただいたことに感謝しております。
私がこの献堂式で嬉しかった事が二つあります。まず、一つは高柳 孝兄弟にしていただいた会堂工事経過報告です。会計報告を含め2ページになる詳細な経過報告書を高柳兄弟に作成していただき、報告していただきました。もちろん、私はその場におりませんでしたので、皆さんのご苦労が如何程のものであったのかはこの資料から想像することしかできません。しかし、この工事の経過をこの資料を通して少しでも知る事が出来たことは皆さんと共にこれからこの浦和教会で成長していく上で必要なことだと思っております。二つ目の嬉しかったことは飯塚教会の関谷 信生先生からのお手紙です。関谷 信生先生は本教会初代牧師 関谷 紀美也先生の御子息ですので、その方からの手紙で旧会堂が出来るまでの事、そして旧会堂が出来てからの事を知ることは浦和教会の事を知らない私にとって、とても新鮮なことでした。これから、私が皆さんと共にこの浦和教会で共に歩んでいくことによって、このような思い出を皆さんと作っていくと同時に私たちは霊的に成長していく事ができると考えております。
聖書の箇所に入っていきます。13節では「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」とあります。皆さん、ご存知かと思いますが、昔ユダヤ人たちがエジプトで奴隷だった時代、主なる神がユダヤ人たちを解放するためにエジプトに下した災厄の一つがエジプト人と彼らが所有する家畜の初子を殺すという事でした。しかし、ユダヤ人と彼らの家畜の初子は殺さない(過ぎ越す)という事でした。この事をユダヤ人達が祝うのが過越祭でした。出エジプト記11,12章にそのことが書かれています。そして、主イエスもまたこの祭に参加しようとしてエルサレムに上って行かれました。上って行かれたエルサレムの神殿の境内で主イエスは何をご覧になったかというと14節に書かれている「牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たち」です。彼らは礼拝に来る人々が神の前に供える生贄の牛や羊や鳩を売っていたのです。また外国の貨幣をそのまま献金してはいけないという規定がありましたので、ユダヤの貨幣と交換するため両替商もいました。なぜこのような状態になっていたかというと、以前ユダヤ人たちの多くは牛や羊を持っていたのですが、生活環境の変化により誰でも牛や羊を持つ事が出来なくなってしまいました。
ですので、この状況はやむをえない、またある意味理にかなっているとも言えます。この状況とは多少の違いがあるのですが、私達日本人は神社などのお祭りで物を売ったり買ったりするのを見ているので、違和感なくこの事を受け入れてしまうのではないかと思います。しかし、主イエスは違いました。このことに物凄く腹をたて、鞭で羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒したと15節にあります。私たちが主イエスに抱いているお優しいイメージとは全く違った主イエスがここにあります。暴力的とも言えます。なぜこのように主イエスは怒られたのでしょうか?理由の一つが主イエスの形式主義に対する怒りだったと思われます。生贄を神に献げるという行為は神に自分を献げるということが根っこにあるのです。神に自分を献げるとは私たちは神の栄光を表す器として造られ、神に奉仕する事が私たちの生まれてきた目的であるということです。この自分たちを献げるという事を表す行為が生贄をささげるということなのです。ですので、自分の身代わりとなってもらう生贄は自分が飼っている群れの中の最上で無傷のものでなければならないのです。しかし、人々の生活様式の変化によって全てのユダヤ人たちが家畜を飼い、育て、最上の無傷の生贄を献げる事が出来なくなってしまい、生贄を売り買いする状態になってしまったのであるが、それが安直な、形式主義になってしまい、神に自分を献げるという精神を人々は無くしてしまった。そして、形式主義だけではなく、この生贄の売り買い、貨幣の両替が商売となってしまい、その行為が聖なる場所で行われていることに主イエスは怒られたと考えます。だからこそ、16節で主イエスはこう言われました。
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」
本来エルサレムの神殿は聖なる場であり、祈りの場であるはずにもかかわらず、商売の場に変わってしまった。誰が変えてしまったのかというと、この境内で商売をしていた人々とこの神殿を管理し、商売人たちに商売をする許可を与え、利益を得ているユダヤ人たちでした。このユダヤ人たちはこの主イエスの行為によって自分たちの神殿の管理権や利益が侵害されると思ったので18節でこのように主イエスに言ったのだと思います。
「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」
つまり、ユダヤ人たちはこの神殿を管理する権利を持っていると主張し、彼らのこの権利を侵害するのであれば彼らより上の権利を持っているということを奇跡なりなんなりして証明しなさいということを主イエスに言っているのです。主イエスに敵対してきたファリサイ派の人々、律法学者たちはよくこの論法を使いました。
マタイによる福音書21章21節から27節にその事が書かれています。主イエスが神殿で教えていると祭司長や長老が近寄ってきて、主イエスにこう尋ねました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイによる福音書21:23)
彼らに対して主イエスはこのように言います。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」(マタイによる福音書21:24-25)結局彼らは主イエスの問いに答えられませんでした。また、マタイによる福音書12章38節から42節において、律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに対してしるしを求めましたが、主イエスは39節で「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と答えられました。
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書2章18節に出てくるユダヤ人たちも表面上神殿を聖なる場所、祈りの場所と言っておきながら、実際は商売人に商売をすることを許可し、それによって利殖を得て、権威としるしを頼っていたのです。このような神の御心とかけ離れた彼らの考え、そしてその考えに基づいた行動に対して主イエスは怒られたのです。それが主イエスの宮清めです。主イエスは神殿で行われているこれらの行為に憤られ、この宮清めを行なわれたのですが、神殿という建物に固執してはいませんでした。19節で主イエスはユダヤ人たちにこう答えられました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」もちろん、主イエスが言われる神殿は実際の神殿ではなく、ご自分の体であり、このことは主イエスの十字架の上での死と3日後の復活を意味しています。
そのことは21節から22節に書かれています。つまり、本当の神殿はキリストの体です。更に言うならば、主イエスの十字架上の死による私たちの罪のあがないと主イエスの復活による勝利こそが重要であります。私たちの中で主イエスによる宮清めはできているでしょうか?そして、私たちは主イエスの十字架の上でのあがないと復活を受け止めているでしょうか?私たち浦和教会の成長はここからスタートすると思います。
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