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「世の富」

2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日

説教題:「世の富」

聖書 : 新約聖書 Ⅰテモテへの手紙 6章1節-12節(389㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 「世の富」と言うと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?やはり真っ先に思い浮かべるのは金銭ではないでしょうか?金銭以外で「世の富」とは何でしょうか?と問われれば、皆さんは何と答えられるでしょうか?才能、スキル、能力やそれらを取得している人を挙げられるかもしれません。

 例えば、野球の好きな人にとってはアメリカのメジャーリーグで活躍する大谷翔平選手はこれに当てはまるかもしれません。もっとも彼は怪我をしているので、試合に出場していないと聞いております。また、野球といっても、アメリカのメジャーリーグに興味はなく日本のプロ野球にしか興味がないという方であれば、自分が応援する、最近の言葉で言えば、自分の推しの球団と選手たちがこれに当てはまるでしょう。 

 サッカーが好きな人であれば、海外のプロサッカーチームか日本のJリーグのチームではないでしょうか?この浦和にも浦和レッズがありますね。浦和駅の東口から地下の通りを抜けて西口に抜けるところにこのチームのサテライトショップがあるのですが、素晴らしいですね。私が初めてこの浦和教会に来て、説教をした時も浦和レッズの事を少しお話しました。というのも私の実家は柏でして、私の実家の直ぐ側に柏レイソルズという同じJリーグチームのホームグラウンドがあるのです。ですから、この浦和レッズに対して親近感を持っていたので、お話をさせていただいた次第です。

要するに、世の富というと一般的に言えば金銭であり、それ以外で言えば、人によって違いがあるのですが、人を魅了するものだということです。もちろん、こういった物に全く興味を示さない憮然として生活をしなさいというわけではないのですが、それらが私達の生活の中心となってしまうとなると話は別です。それは主を捨て去り、それら偶像に仕えること、世に仕えることになるからです。


 本日の聖書箇所です。パウロは最初の1節と2節で奴隷と主人の関係を言っているのですが、この箇所はともすれば私達は誤解しがちな箇所です。どういう誤解かというと、パウロは奴隷制度を肯定しているので酷(ひど)い差別主義者ではないかというものです。もちろん、今の私達の人権を尊重する価値観では奴隷というものは人権の侵害であり、廃止すべきものなのですが、その当時は制度として存在していました。ですから、私達の今の価値観でもってその当時の価値観を持つパウロを批判するのは間違っているのではないでしょうか?


 そしてこの1から2節で私達が注目すべきことは奴隷もしくは奴隷制度ではなく、「仕えること」と「秩序の維持」だと思うのです。

この主人と奴隷との関係(奴隷という言葉は現代では誤解をまねくのであまり使いたくないのですが)は主と私達との関係の一端を表していると思うのです。主と私達との関係は例えば父と子という関係でも表されます。もちろん、主イエス・キリストが長子であり、私達は主イエスに贖われ、連なっているので、父と子という関係であるのです。

ですが、主に仕えるという意味で主人(主)と奴隷(私達)という関係ではないでしょうか?

私達はよく神に仕えると言いますが、何か差別的なもしくは人権侵害的な意味で使ってはいませんね。むしろ喜んで仕えることこそがキリスト教の本分であると思います。

1節をよく見てみて下さい。「軛(くびき)の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜(ぼうとく)されないようにするためです。」


 ここで主人と奴隷の関係の例えの説明をします。奴隷が主人を馬鹿にし、言うことを聞かなかったらどうでしょうか?多分当時の人々がそのような光景を目にしたら、ああ、あの主人は自分のところの奴隷すら満足に扱うことも出来ないのかと馬鹿にされるに違いありません。これを主と私達との関係で見てみますと、私達が主の教えに従わず勝手なことをしていれば、ああキリスト教というものは大したことはないんだなと人から思われるということです。

 2節ではさらに、奴隷としての義務として主人が信者だった場合はさらに仕えなさいと忠告しています。というのは同じ信仰を持っているから同士であるとしてしまいがちということだと思うのです。しかし、やはりそこには主人と奴隷という壁があるのです。もちろん、こういうことを言うと現代の考えでは奴隷を推奨するのかとお叱りを受けてしまいがちなのですが、奴隷制度というものをとっぱらったとしても、私達の社会には持ち場、立場というものは存在します。教師と生徒、上司と部下、親と子、議員と一般人、警察と一般人、等々です。それぞれの持場や立場を人権や自由の名の下にとっぱらって果たして私達の学校は、会社は、組織は、社会は、国はまともに動くでしょうか?難しいと思います。


 秩序が大切なのです。もう何度も言うので聞き飽きたと言われる方もいるとは思いますが、昨今のユーチューバーと呼ばれる人々は閲覧数を上げ、広告収入を得るためなら何だってする、法律違反を厭(いと)わない。

秩序など関係ないということです。神は秩序の神です。混乱の神ではありません。

もちろん、これは悪い秩序、悪い慣習を盲目的に続けることを意味しません。この前の説教でもお話をしましたが、この国ではある大手芸能事務所の亡くなられた元社長が所属タレントに対して性的な虐待を繰り返してきており、その被害者数は驚くべき数であったということが伝わってきております。マスメディアは放置してきました。また、ある大手の中古車販売業者も不正をしてきたということが明らかになっており、ある損害保険会社もその不正を知りつつ取引を続けてきたということです。そして、その大手中古車販売業者だけでなく、別の大手中古車販売業者もまた同様の不正を続けてきたということです。これは中古車販売業界全体が不正をしてきたのではないかということが疑われています。もし、中古車業界全体がこの不正に手を染めてきたのだとすれば、マスメディア及び監督官庁は何をしてきたのだということなのです。

そして当然のことながらこのような不正な大手芸能事務所を中心とするマスメディアや中古車業界の秩序の存続を主はお望みではないことは明らかです。


 聖書に戻ります。3節から5節に書かれているのは異なる教えです。少し前のことですが、話題になったと思います。例の宗教団体の問題です。今ではあまり話題に上りませんね。ですが、このようなキリスト教と名乗ってはいるけれども、その実、間違った教えを教えている団体はいくつか存在しますし、その伝道力たるや凄まじいものがあります。

浦和駅周辺でもその宗教団体が伝道いたしておりました。私達はこれらに気をつけなければなりませんし、また私達の団体でも様々な考え方の人がおられます。もちろん多様性というものは必要です。ですがこのパウロが指摘している異なる教えがまん延する可能性もあるのです。


 パウロは9節、10節で金銭の欲を警告しています。冒頭で私が述べたように金銭の欲というものは非常に強いものです。もちろん、私達は生きていくためには金銭は必要ですが、それに欲がからむと主から離れてしまうということです。この事は福音書で主イエスが何度も警告しています。金持ちの青年が全財産を施し、主イエスに従いなさいと言われて、従うことが出来なかった話、収穫が多かったので蔵をさらに大きくしようとするが金持ちに対して「今夜お前の命は取られる」と神が告げられた話、金持ちとラザロの話などですね。私はこの説教の最初に金銭の事を話しましたが、その後に様々な偶像についても話しました。

これらもまた「この世の富」です。


 パウロは11節から12節にかけてこれらの事つまり、「世の富」を避けなさいと言っています。もっと言うのであれば、世の富、異なる教え、世の表面的に正しいとされる価値観を避けなさいということです。

正しい価値観は聖書の中にこそあります。

聖書にある「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を求めなさい。

決してこの世の移ろいゆく、吹けばとぶような考えに心乱されないようにしなくてはいけません。

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