「主に従う道」
2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日礼拝
説教題:「主に従う道」
聖書 : 新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章3-13節(417㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
皆さんは、「本日の聖書箇所は厳しい」と思われるかもしれません。主イエス・キリストがこの地上に来られる以前と申しますか、主イエスがこの地上で伝道しておられた時は律法主義というものがユダヤ社会に浸透していました。つまり、人が神の前に正しくあるためには律法を守らなければならないというものです。逆に言えば、律法さえ守っていれば良いという考え方だったのです。この考え方に反対したのが主イエス・キリストでした。
主イエス・キリストは人が救われるのは神の御恵と私達の主イエス・キリストを信じる信仰によるものであるということを教えられたのです。そして主イエス・キリストは十字架の上で亡くなられることによって私達の罪の贖いをしてくださったのです。そして主イエスは三日後に蘇り、その後弟子たちなどにお会いになり、天に昇り、神の右にお座りになられ、栄光の座に着かれました。
私達は神の恵みとこの事を信じる信仰によって救われたのです。にもかかわらず、冒頭でも言いましたが、「本日の聖書箇所は厳しい。」もしかすると「律法主義的な感じがする。」と思われるかもしれません。なぜなら、出てくる言葉が「罪と戦って血を流す。」「鍛錬」「懲らしめ」「鞭打たれる」といった言葉が並ぶからです。
確かに私達は主の恵みと信仰によって救われました。そういう意味においてキリスト教は他力本願です。しかし、このヘブライ人への手紙の著者は現状に留まっていいとは言っていないのです。本日の聖書箇所の前の部分12章1節から2節を見てみますとそれがおわかりになると思います。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の王座の右にお座りになったのです。」
「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者、完成者であるイエスを見つめながら。」と書かれている所に注目です。このヘブライ人への手紙の著者はキリスト者の信仰生活は主イエス・キリストを目標に走るレース、競争だと言っているわけですね。「忍耐強く」とありますから「マラソン」のような物を彼はイメージしていたのかもしれません。ここには先程私が述べた受動的なイメージである「神からの恵み」もしくは「信仰」といったものはありません。もちろん、「神からの恵み」そして「信仰」を否定するわけではないのです。私達の救いは「神からの恵みと私達の信仰」に掛かっていることを私達は確信しています。しかし、私達はそれだけではいけないということです。だからこそ、この著者は「主イエス・キリストを目標に走るマラソン」という能動的な表現を持ってきたのではないでしょうか?さらに言うならば著者は「私達の成長」を望んでいると思うのです。
そして、この前の箇所、つまり12章の前には以前お話したのですが、旧約聖書時代に信仰に生きた様々な人々をこの著者は述べているのです。いわば、先達がたくさんいます。だから大丈夫だと言っているのです。その先達たちの名前は聖書を読んでいる私達にはお馴染みだと思います。これは、余談ですが、先月17日はこの教会の創立記念礼拝を行いました。そこで、私達はこの教会の歴史を振り返りました。また去年も行いましたが、今年も召天者記念礼拝を行いますが、そこでもこの教会の先人たちの思い出を偲ぶと思います。しかし、著者は「教会の歴史を振り返る。」、「先人たちを偲ぶ。」だけではなく、「私達が信仰生活を走ろう。」と言っているのです。
そしてこの信仰生活というレースを走るためには鍛錬が必要です。先程も申し上げたように「鍛錬」とか「トレーニング」と聞くと、「やだな」とか「さけて通りたい」と思われるかもしれません。ですが、やはりこのレースを走るためには、そして成長するためにはどうしても必要なのです。
そういうわけで、この「鍛錬」が必要になってくるのです。この著者は鍛錬の必要性を「親の子供に対する鍛錬、いわばしつけ」という例で表現しています。最近の親は「しつけ」と称し、子供を虐待してしまうような勘違いの人たちがいるのですが、子供は「本当の意味での正しい鍛錬、しつけ」というものは必要だと考えます。そうでないと、いざ社会に出た時に、大変なことになるということは皆さんにはおわかりかと思います。
もっとも今の時代、あまりにも多様性を強調するあまり、何が正しくて、何が間違っているかわからなくなってはいると思います。国会議員であるにもかかわらず、国会に出席もせず、他者の暴露ばかりしていても許されてしまう社会ですし。
話を元に戻しますと児童虐待は論外ですが、子供に対する適切な鍛錬は必要なことであるように、私達、信仰生活を歩む者たちにとっても主からの鍛錬というものは必要なことであると考えます。そうでないと、私達は成長しませんし、信仰生活のレースを走ることが出来ないからです。著者に言わせるとこの鍛錬というものは「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」ということです。
(ヘブライ人への手紙12章11節)
さらに言うならば、「………霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(ヘブライ人への手紙12章10節)と著者は言っています。
正直なところ、「試練」、「鍛錬」というものは出来れば避けて通りたいというのが人の常です。ですが、これからも「信仰生活というマラソンのレースを走っていきたい。」「成長したい」と考えている人はこの「試練」「鍛錬」が必要だということがおわかりかと思います。私もこの教会に遣わされてから、いや遣わされる以前から様々な「試練」に遭遇しました。はっきり言って「なんでこんな嫌な事が起こるのだ。」というネガティブな感情が先立っていました。しかし、これらの御言葉を聞き、主にはご計画があり、私達を成長させるために、走らせるために鍛錬してくれているのだという気持ちになってきました。
最後にパウロの言葉を述べたいと思います。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5章3節から4節)
主に従う道とはこのようなことを言うのではないでしょうか?
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