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「主に望みを置く」

2024年3月31日 復活節第1主日 イースター 

説教題:「主に望みを置く」

聖書 : イザヤ書 55章1節-11節(1152㌻)

   ヨハネによる福音書 20章1節-10節(209㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 イースターおめでとうございます。主はご復活されました。本日の第2の聖書箇所ヨハネによる福音書20章1節でマグダラのマリアが、主イエスが葬られた墓に行ったと書かれています。ここで注目するのは最初に主イエスの墓に行ったのが弟子たちではないということです。

 主イエスが逮捕された時、主イエスの11人の弟子達は逃げ去りました。ユダは主イエスを裏切り、ペトロは三度主イエスを知らないと言い、逃げました。そして主イエスが十字架で処刑された時、十字架のそばに居たのは主イエスの母マリアとその母の姉妹、マグダラのマリアと主イエスの愛する弟子ヨハネでした。ちなみに主イエスはヨハネに主イエスの母マリアを託しました。ここの事情というのは前章ヨハネ19章25節から27節に書かれています。

 その後主イエスが十字架の上でお亡くなりになられましたが、その遺体の引き取りを総督のピラトに願い出たのが主イエスの弟子であったアリマタヤのヨセフという人物でした。使徒と呼ばれた主イエスの12人の弟子ではなかったのですが、彼は勇気を振り絞って願い出ました。もしかするとそう願い出ることによって主イエスの弟子であるとユダヤ人達に目をつけられ、殺されるかも知れなかったのに彼は行ったのです。そしてあのニコデモさんも来られたということです。彼らは主イエスを埋葬しました。この事は19章38節から42節に書かれています。

 長々と話してきたのですが、主イエスが亡くなられた時にその場にいたのは主イエスが愛された弟子のヨハネ、主イエスの母マリアとその姉妹、そしてマグダラのマリアでした。そして主イエスの遺体の埋葬に関わったのは主イエスの弟子であるアリマタヤのヨセフとニコデモということです。つまり主イエスの多くの弟子達は居なかったということです。主イエスに関わりがあると知られると自分が殺されるかも知れなかったので弟子達のこの行動は理解できるのですが、主イエスにとって悲しい出来事であったに違いありません。

 そして主イエスが墓に葬られてから最初にそこを訪れたのは弟子達ではなくマグダラのマリアというのも悲しいものがあります。ですが、注目するのはこのマリアの行動です。1節の「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に言った。」もう主イエスは亡くなられている。だからそこに行っても主イエスに会えるわけではない。でも彼女は行ったのです。しかも「朝早く、まだ暗いうちに」です。ここに彼女の主イエスへの思いがあるのです。

 そして彼女が行ってみたら墓から石が取りのけてあるのを見てあわててペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子ヨハネなのですが、彼らのところに行ってこの事を知らせたのです。彼女は彼らの所へ歩いて行ったのではありません。「走って行った。」のです。ここに彼女の必死さがあります。そして彼女の必死さは彼女の主イエスへの思い、主イエスへの愛から出た行動です。

 彼女の知らせを聞いたペトロとヨハネもまた走って墓に向かったのです。それだけ主イエスの事を愛していたということです。4節にこのように書かれています。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより早く走って、先に墓に着いた。」

 先に着いた弟子は墓に入らなかったが、ペトロが墓に入り、主イエスの体を包んでいた亜麻布と主イエスの頭を包んでいた覆いが別々の所に置かれていたのを発見したのです。そしてその後もう一人の弟子も中に入りそれを見ました。8節にこのように書かれています。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」

 マリアが言ったように墓石が除けられていて、主イエスの遺体がなくなっているということを彼らは確認し、信じたのです。つまり主イエスがご復活なされたということをまだ理解出来ていなかったからです。それは次の9節にこのように書かれているからです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」

 マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネは主イエスが十字架の上で亡くなられて、意気消沈していたが、それでも主イエスを愛していた。しかしそれでも主イエスのご復活に対しての理解は彼らの中にはなかったのです。しかし、この9節は主イエスがご復活されたということを表しています。つまり主イエスのご遺体がなく、主イエスのお体を覆っていた亜麻布、頭を覆っていた覆いが置かれていたのを誰かが主イエスのご遺体を持ち去ったと彼らは理解したが、9節はそれは二人の弟子たちが主イエスのご復活に関する聖書の言葉を理解していなかったからだとしている。つまり主イエスはご復活されたのです。彼らはそれを理解出来なかったのです。

 そしてご復活された主イエスはマリアに現れ、その後弟子たちに現れます。それは11節から18節、19節から29節に書かれています。

 主イエスの福音宣教に関わった女性たち、弟子たちは主イエスの逮捕、十字架の上での死でもって心が折れて絶望しました。さらにマグダラのマリア、シモン・ペトロ、ヨハネは主イエスのご遺体が取り去られたのを見て、さらに絶望したと考えられます。ですが、この後彼らは復活された主イエスと会うのです。主イエスが仰った「悲しみが喜びに変わる。」のです。

 本日の第一の聖書箇所のイザヤ書55章は主イエスご自身を表しています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」と1節にあります。水のところとはどこでしょう。主イエスの事です。サマリヤの女性との会話で主イエスは彼女に「生きた水」をお与えになると仰いました。2節から3節に「わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と書かれていますが、誰に聞き従い、誰の言葉に耳を傾け、誰の元に来なさいと言っているのでしょうか?主イエスです。「主を尋ね求めよ」と6節に書かれていますが主とは誰か?主イエスです。イザヤ書は主イエスを指し示しています。そして主イエスが亡くなられたということで無効にはならないのです。主イエスは復活され、このイザヤ書の預言が成就したのです。イザヤ書55章11節です。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」

 主イエス・キリストは父から与えられた使命、私達の罪の贖いを成し遂げ、ご復活されました。私達はこの主イエス・キリストに望みを置いているのです。

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