「主の変容」
2022年3月27日 受難節第4主日
説教題:「主の変容」
聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 9章2-10節(78㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスの御姿が変わるのを見るという経験はそれまで主イエスと共に行動をし、主イエスが行なわれる数多くの奇跡を目の当たりにしてきた弟子たちですら驚くべきものであったことだろうと思われます。まず、最初の2節でわかることはこの奇跡が限定的だったということです。主イエスは弟子たちを全員お連れになったわけではありません。ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネだけをお連れになった。そして、高い山に登られました。この奇跡がおこったのは偶然ではありません。主イエスがこのようになられたのはどこでも良いわけではなかったのです。
主イエスは意図してこの山に登られたのです。山と神の臨在とは関係があります。例えば主なる神はシナイ山に降りられモーセを山の頂きに呼び寄せられ、彼は登って行ったと出エジプト記19章20節に書かれていますし、彼はそこであの有名な十戒を神から授けられました。さらに、エリヤがイザベルから命を狙われた時に逃げた場所は神の山ホレブでした。その洞穴で彼は主なる神の御声を聞きました。つまり、モーセはシナイ山でエリヤはホレブ山で神に出会ったということです。これは列王記上19章1節から14節に書かれています。山というのは神の臨在と深く関わりがあり、そして主イエスもまた山に登られたということです。この奇跡を目にすることが出来たのは弟子たちの中でも限られた人達だけであり、しかも、山という限られた場所で行なわれたということです。
ここに神による選びというものがあるのではないかと考えるのです。このように言ってしまうと、傲慢であるとか思い上がっていると言われてしまうかもしれないのですが、やはり神はキリストを信じている人々と信じない人々を区別なさると思うのです。キリストを信じていようと、信じていまいと等しく神が救われるというのであれば、私達の信仰、宣教は虚しいということになってしまいます。もちろん、キリスト者でない方々に対して傲慢にふるまったり、高ぶったりするという意味ではないのですが、私達はキリスト・イエスを信じる信仰を通して救われたということは神からの恵みであると同時に私達の特権でもあります。それと同じようにこの主イエスの弟子であるペトロ、ヤコブ、ヨハネは他の弟子が経験できなかったことを目の当たりにしたのです。すなわち、主イエスの変容、モーセとエリヤが現れ主イエスと共に語り合ったこと、そして父なる神からの御声を聞くこと、これらを経験することです。これは彼らの特権です。
しかし、彼らにはこの事を理解することが出来ませんでした。ペトロだけは「素晴らしいこと」という事は理解出来たかもしれませんが、本当に理解出来なかったのでしょう。だからこそ、ペトロは5節であのような事を言ってしまったのです。確かに記念として仮小屋を3つ建てたいというペトロの気持ちは分かるのですが、エリヤ、モーセ、そして主イエスが語り合っている中でそのような事をしかもペトロが言うべきであったのかということは、はなはだ疑問なのです。「口をはさんで」という表現にもペトロが場違いなことを言っていることが感じ取れます。
しかし、ペトロがこの場違いな事を言った理由は、はっきりしています。6節に書かれています。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」彼らは興奮して何が何だか分からなかったし、恐れてもいたということです。人はパニックになると何を言っていいのか分からなくなるものです。さらに、彼らはこの超自然なことすなわち、死んだはずの存在であるモーセとエリヤが突然あらわれ、自分達の師匠と語り合い、天から主なる神からの御声が聞こえてくるなどの想像をすることがなかったでしょう。神の臨在や天的な存在に対して人は恐れてしまうものなのです。ルカによる福音書に出てくる、天使ガブリエルに出会った洗礼者ヨハネの父ザカリア、主イエスの母マリアなどもそうでした。事実このペトロが主イエスの弟子になる出来事がありました。漁師であったペトロは夜通し漁をしたが、魚をとることが出来なかったにもかかわらず、主イエスが網を降ろしなさいと言われ、その通りにしてみると、魚が大量に網にかかりました。ペトロはこれを見て主イエスの足元にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。これも罪深い自分が天的な、神的な存在に触れた事に対しての恐怖であったと考えます。
ですから、ペトロが訳のわからないことを口走るのも、恐怖を感じるのもここでは当たり前の事なのです。さらに、主イエスは弟子たちにこの事を話されるのを禁じました。
「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」
マルコによる福音書9章9節ですが、このことも弟子たちは理解出来ませんでした。
神はご計画に従って動かれます。そして、父なる神の御心をおこなっている主イエスもまた父なる神のご計画に従って行動されています。ですから、弟子たちがこの時点で復活について理解出来なかったとしても驚くに値しません。何事にも時があるのです。
しかし、確かな事は神からの救いの福音が弟子たちに託されたということだということです。モーセは律法を表しています。そしてエリヤは預言者で預言を表しています。聖書で律法と預言は重要な事なのです。そして主イエス・キリストは神の御子であり、律法を完成された方であり、預言者であり、私達の罪を十字架の上で贖われた方、いわば私達の救い主です。このように神による私達の救いのバトンは主イエスに繋げられ、そして主イエスの弟子達であるペトロ、ヤコブ、ヨハネへと繋げられました。たとえ、その場で主イエスの弟子達が完全に理解出来なかったとしても、後に主イエスの復活、そして聖霊の神の助けによって理解し、彼らは福音伝道へと働いていくのです。そして、神の救いの福音は私達にまで及んでいるのです。ですから、私達もまた私達の次の世代へ救いのバトンを繋いでいこうではありませんか?
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