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「主の恵みの予兆」

  • urawa-church
  • 2024年12月15日
  • 読了時間: 6分

2024年12月8日 アドベント第2主日

説教題:「主の恵みの予兆」

聖書 : イザヤ書 35章3-10節(1116㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 人間何か希望がないと生きるのが億劫になるというか辛くなります。例えば本日私達はウクライナ・ロシアの平和への祈りをいたしました。現状ウクライナで実際にこの戦争の被害に遭っている人々もしくはガザ地区で被害に遭っている人々にとっての希望はなんでしょうか?もちろん戦争が収まることですが、具体的にそのような兆しはありません。むしろ拡大しているのが現状です。ですがそれだからこそ具体的な希望が必要だと思います。

 私もまた戦争で被害に遭っている方々ほどではありませんが、色々な所を通らされてきました。一度目は日本の大学受験に失敗しどのような進路に行くのか迷っていた時、二度目はアメリカの大学を卒業しはしましたが、日本に帰ってきても就職できずにアルバイト生活をしていた時、三度目はアメリカの神学校を卒業し、日本の母教会に帰ってきましたが自分の将来が定まらなかった時です。ですがその時々で主は私を導いてくれました。日本の大学受験に失敗したときに、主は私をアメリカのクリスチャンカレッジに導いてくれました。また私の留学をサポートしてくれた機関を運営しているのがキリスト教会ということもあり、それまで教会にすら通っていなかったのですが、家族ともども教会に導かれたということです。アメリカの大学を卒業してからアルバイト生活をしていたのですが、アメリカの神学校に行くという希望が与えられ、それが実現しました。また神学校を卒業し、母教会で何かのポジションが与えられるでもなく悶々としていたのですが、ナザレンの牧師になる、牧師になるためにナザレンの神学校に行くという希望が与えられました。そしてナザレン教会に通い、神学校に入学し、卒業し、今この講壇に立ちこのように皆さんにお話をしている次第です。主は私に希望を与え、ここまで導いてくれたということを確信しています。

 さて本日の聖書箇所ですが先週に引き続きイザヤ書です。ユダの民は主に逆らって生活をしていましたが、主の御計画によってバビロンにユダ王国は滅ぼされ、全員ではないのですが住民はバビロンに連れて行かれます。バビロン捕囚です。人々の絶望はいかばかりであったことでしょう。ちょうど今のウクライナの人々、もしくはガザに住んでいるパレスチナの人々と同じ心情であったと思われます。希望がない状態、将来の展望もない、ただ生きているだけの状態でした。

 そのような中でこのイザヤの預言というものは人々に希望を与えるものです。神の御計画を示しています。つまり人々をそのままの絶望の状態、捕囚の状態にはしておかないということを示しています。事実バビロンはペルシャによって滅ぼされ、人々は故郷の地に戻ることができました。そういう意味で本日のイザヤ書はバビロン捕囚からの解放を表しているという説があります。そして当時の状態を考えてみれば、イザヤの預言を聞いたユダの人々は確かにそう思ったに違いないのです。

 しかしそれだけではなく主イエス・キリストの御降誕そして再臨まで預言しているのです。4から6節を見てください。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」

 主イエスは神の子、三位一体の子なる神としてこの地上に来られました。そして奇跡によって目の見えない人の目を開き、聞こえない人を聞こえるようにし、歩けなかった人を歩けるようにされました。十字架にお掛かりになられ私達の罪を贖われ救われたのです。

 主イエスの再臨について話したいと思います。8節を見ていただくと「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。」とあります。これと似たようなことが黙示録に書かれています。黙示録はキリストの再臨、最後のサタンとの戦い、そしてキリストの勝利について書かれています。「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」(ヨハネ黙示録21章26節から27節)これはサタンとの最後の戦いに勝利し、新しく作られたエルサレムについて書かれています。またヨハネ黙示録22章15節にも「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」と似たようなことが書かれています。


 もう一度イザヤ書に戻るのですが、10節「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。」です。ここをバビロン捕囚から解放されてシオンつまり故郷のユダに帰るというふうに捉えることもできます。「主に贖われた人々」「帰って来る」もしくは「喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。」という言葉を見てみると。

 ですが「主に贖われた人々」をバビロン捕囚から主に助けられたユダの人々ではなく「主イエス・キリストの十字架によって罪贖われた人々」つまり私達というふうに解釈することもできます。  

さらにキリストの再臨によって新しいエルサレムに喜びと楽しみをもって入ることが出来ると解釈することもできるわけです。この世に生きている間は嘆きと悲しみが私達の間に存在するのです。  

ですがこの新しいエルサレムではそれらが存在しないのです。  

このことは黙示録にも書かれています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(ヨハネ黙示録21章3節から4節)                


 先ほども申し上げたように、ユダの人々は当時自分たちを取り巻いている環境からこの預言をバビロン捕囚からの解放ととらえたことでしょう。しかし神の御計画はそれを超えているのです。   

パウロはこのように言っています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマの信徒への手紙11章33節)      

ユダヤ人たちの神への不従順によって福音が以前神に対して不従順であった異邦人に伝わり、異邦人が福音を受け入れ救われた。今度は異邦人たちが救われたということに対してユダヤ人たちがねたみ彼らが神に立ち返る(つまり主イエス・キリストを受け入れる)という神の御計画を知り、このように言っているのです。

 私たちにとって神の御計画というものは測り難いことがあります。ですが一つ確かなことは神が私たちに幸いを計画されているということです。もちろんこれは人生が常に順風満帆であるということではありませんが。私たちはそのことを信じて主イエスの御降誕をまちのぞもうではありませんか。

 
 
 

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