「主の来臨の希望」
2021年11月28日 待降節(アドベント)第1主日礼拝
説教題:「主の来臨の希望」
聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 51章4-11節(1146㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達は待降節(アドベント)に入りました。アドベントの元々の意味は「何かを待ち望む」ということです。私達は何を待ち望んでいるのでしょうか?私達の救い主である主イエス・キリストのご誕生を待ち望んでいるのです。本日の聖書箇所は主イエス・キリストのご誕生の遥か前の時代に預言者イザヤの口を通して主なる神から待ち望むよう言われた人々の事です。彼らはユダヤ人でした。彼らの先祖はアブラハムであり、彼は神に選ばれ、神から祝福された人でした。アブラハムの子孫である彼らも神に選ばれ、神から祝福された人々でした。しかし、彼らは幾度となく神に逆らい、神の怒りを招きました。彼らの国は神に選ばれたダビデ王、その息子であるソロモン王の元で統一されますが、ソロモン王の罪のために、彼の死後、北王国のイスラエル王国と南王国のユダ王国に分裂します。双方の国々は神に逆らい続け、国内には不正がはびこっていました。神は彼らを見捨て、イスラエル王国はアッシリアによって、滅ぼされ、ユダ王国もバビロニアによって滅ぼされ、ユダ王国の民はバビロンに連れて行かれました。これがバビロン捕囚です。この連れて行かれたユダヤ人たちに対して「待ち望みなさい。」と神は語っているのです。神はこのユダヤ人たちに何を待ち望みなさいと語っているのでしょうか?神です。さらに言えば、神がもたらす経済的、社会的、そして精神的な「平和」でしょう。
しかし、彼らはそれを信じることはなかなか出来なかったに違いありません。バビロニアによって多くの人々が殺され、捕らえられ、虜囚として引かれていき、彼らが住んでいた家々、神殿、建物は壊され、神殿の宝物は奪われたのです。彼らは負けた国の者として敵国で住まわされたのです。勝者の国の人々から屈辱を受け続けたことでしょう。私達には想像することは困難かもしれません。
ですが、私達がその一端を知ろうとするのであれば、同じ旧約聖書にある哀歌という書を読んでみてはいかがでしょうか?そこには バビロニアに連れて行かれたユダヤ人の嘆きと悲しみが書かれています。
しかし、このような悲惨な状態のユダヤ人達に神は「待ち望みなさい。」と言われるのです。「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」イザヤ書51章4節です。これは神がユダヤ人たちに悔い改めを命令しているのです。事実、彼らは今まで神に逆らい続け、他の神々や国々を頼ってきたのです。神はそういう事をやめよと言っているのです。そして、真実の教えは神から出るのでこれに耳を傾けよと言っているのです。これが悔い改めです。
その後に救いと恵みを与えると神は言われるのです。5節には「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む。」とありますし、6節には「わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。」と書かれています。
神はまたユダヤ人たちに対して「わたしに聞け」と言われます。さらに、周りの人間たちに嘲られ、ののしられても気にするなと言われるのです。そして、神は恵みの業と救いを彼らに約束します。そして、9節,10節で主に選ばれたユダヤ人たちが過去どのような栄光に満ちたことを成し遂げてきたのかを神は彼らに思い起こさせようとしている。そして、最後に神は人々に平和を約束した。
神はこのように絶望に満ちた捕囚にあるユダヤ人達を勇気づけようとしている。そして、神の恵み、救い、そして平和を待ち望みなさいと預言者イザヤを通じて語っています。しかし、この深い絶望の内にいるユダヤ人たちは預言者イザヤが語る神の言葉を信じることが出来たでしょうか?なぜなら、人は目の前の事実によって判断してしまうからです。目の前の事実は到底そのような希望に満ちたものではなかったからです。捕囚の民として、様々な困難があったことでしょう。彼らが神の言葉を信じ、神を待ち望むためには何が必要だったでしょうか?信仰です。ヘブライ人への手紙11章1節から2節にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」そして、同じヘブライ人への手紙11章35節から38節には彼らが希望を抱きつつ、この世で様々な困難に直面したことが書かれています。それはバビロン捕囚のユダヤ人達と同等の困難ではないかと考えます。ですが、ここに出てくる人々は目の前の困難な事実にもかかわらず、神を信じたのです。神を待ち望んだのです。イザヤ書でユダヤ人達に語られている神もまた彼らにそのような信仰を持って欲しいと願っていたのではないでしょうか?そして、捕囚の身であっても神に対しての信仰を持ち続けた人物は確かに存在しました。ダニエルがそうです。彼は神に対する信仰によって神に認められ、愛された人物です。ダニエル書を読んでいただければ、彼がいかに強い信仰を持っていたかがわかります。
ユダヤ人たちは最終的に解放され、故郷に帰ることを許されました。神がお約束された通りになりました。しかし、時を経て、ローマ帝国の支配下に置かれてしまいました。つまり、一時的な解放でしかなかったのです。本当の解放とは何でしょうか?それは主イエス・キリストの誕生です。主イエス・キリストの来訪です。さらに言うならば、主イエス・キリストを信じることです。
私達が今解放されたいと願っているのは何でしょうか?人によって違うかと思います。ある人は仕事かもしれませんし、またある人は人間関係かもしれません。もっとも、解放されたいのはやはり、新型コロナウィルスだと考えるのですがいかがでしょうか?ですが、私達を本当の意味で解放してくださる方は十字架の上で私達の罪を贖ってくださった主イエス・キリストであるということを今一度私達の胸に刻みつけるべきだと私は思うのです。
私達はこの世で生きていく中で様々な困難に遭遇します。もちろん、バビロン捕囚にあったユダヤ人や旧約聖書時代に信仰に生きた人々ほどの困難ではないかもしれませんが、やはり困難は困難です。ですが、そういうときほど信仰に生きた人々の事を思い浮かべるのです。ユダヤ人たちに語った神の言葉を思い起こすのです。そして、信仰の完成者である私達の主イエス・キリストに思いをはせるのです。そうすることで、神、主イエス・キリスト、そして聖霊に私達の信仰を強めていただけるようにしてもらうのです。だからこそ、主イエス・キリストの誕生を待ち望むのです。
Comments