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「主の来臨の希望」

2022年11月27日 アドベント第1主日礼拝

説教題:「主の来臨の希望」

聖書 : 旧約聖書 エレミヤ書 33章14節-16節(1241㌻)

   新約聖書 ルカによる福音書 21章25節-36節(152㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 本日はアドベント第一主日礼拝です。主のご誕生を待ち望む事が今日から始まります。私達はよく待ち望むという事をしてきました。子供の頃はクリスマスやお正月を待ち望んだ事でしょう。

最もクリスマスを待ち望んだ理由は何か家庭でパーティをし、美味しいものを食べ、クリスマスプレゼントを貰える事かもしれません。また、正月を待ち望んだのもお節料理やお雑煮といった美しいものを食べ、お年玉を貰えるからという事が理由だったのかもしれません。さらに言えば、夏休みや冬休みといった休みを待ち望んだ経験もあるでしょう。

 大人になり、仕事を始めれば、週末や夏季休暇、年末年始の休みを待ち望んで一生懸命仕事に励んだ方々もいらっしゃると思います。もちろん、待ち望む事柄は千差万別ですが、共通している事は私達は何か楽しい事を待ち望みます。そしてそれがほぼ実現可能である事がわかって待ち望みます。今私が挙げた例は大体そうだと思います。


 さて、本日の第一の聖書箇所は主がエレミヤを通してなされた預言です。それはエルサレムの復興の預言の一部です。復興の預言は前章32章の37節から44節にもあり、また33章6節から26節までにもあります。ですが、果たしてこのエレミヤの預言をユダヤ人達が信じたでしょうか?それはこの預言がなされた時の状況を考えてみるとお分かりになるかと思います。バビロンの軍勢がエルサレムを取り囲んでいたからです。彼らが巨大な国であり、多くの国々を滅ぼし領土としてきた事をユダヤ人達は知っていたからです。ですから、ユダヤ人達はそのようなエルサレムの復興の事など考えられなかったに違いありません。実際に主ご自身が預言でこのエルサレムの都は破壊しつくされ、多くの人々が殺されるであろうとエレミヤの口を通して預言されたのです。(エレミヤ書33章4節から5節)そして実際その通りになるのです。そして人々はバビロンに捕囚されたのです。ですから、このような状況で   

エルサレムが復興する事など考えられなかったでしょう。


 私は人々が待ち望む事には二つの共通した事があると言いました。その事自体が楽しい事であることそしてそれが実現可能であることです。もちろんバビロンの軍隊に囲まれているユダヤ人にとってエルサレムの復興というよりもエルサレムが外敵に脅かされず、穏やかに暮らすことが出来ることは楽しい事であり、彼らが願っている事だったでしょう。しかし、それが実現可能であるとは誰も思えなかったに違いありません。つまり、一般的な感覚で言うならば、エルサレムの復興を待ち望む事などとても出来ないということになります。しかし、主は預言者エレミヤはもとより、他の預言者たちの口を通してエルサレムの復興を預言してきました。

それは偽預言者たちの預言とは異なるものです。というのは多くの偽預言者達も預言をしてきたのですが、それらの預言とはエルサレムは占領されない、バビロンの軍勢は敗れ去るといったユダヤ人達を鼓舞する、言ってみれば彼らが聞きたい事を聞かせる都合の良い物でした。彼らは主から使わされてはいなかったのです。


 そうではなく、主の預言者達はユダ王国とその都エルサレムは徹底的に破壊され、金品は奪われ、多くの人々は殺され、殺されなかった人々はバビロンに捕囚として連れて行かれると預言しました。しかし、その後、彼らは解放され、故郷に戻ることが出来るという事を預言したのです。事実、彼らは解放されて、故郷に戻る事が出来ました。そして、神殿を建て直したのです。この事はエズラ記やネヘミヤ記に書かれています。


 さて、本日の聖書箇所です。これはエルサレムの復興の事だけを預言しているのでしょうか。といいますのは、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人達は故郷の酷い有様にショックを受けたのですが、エズラ記やネヘミヤ記に書かれているように主の神殿を建て直し、エルサレムを復興しました。しかし、結局はローマ帝国に支配されてしまいます。新約聖書ではユダヤ人達がそのような状態であったという事が書かれています。ですが、本日の聖書箇所のエレミヤ書33章15節から16節で主は預言者エレミヤを通してこのように仰られている。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」

ここでは、ユダの王の出現を預言している。彼は正義の若枝であり、公平と正義をもってユダを治めると預言されている。もしこのような状態であるならば、ローマに支配されているような事はありえない事なのです。ですから、このエレミヤの預言の一部である本日の聖書箇所はただ単にバビロン捕囚から故郷に帰還し、神殿や自分達の都市のエルサレムの復興をするという事だけではないという事が言えます。

 すなわち、主イエス・キリストの誕生の預言です。マタイによる福音書2章2節で東方の占星術の学者たちがエルサレムに来てこのように言いました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」

また、主イエスが十字架に架けられた時の罪状は何だったのでしょうか?

「ユダヤ人の王」です。

この事からもエレミヤの預言は主イエス・キリストの誕生を預言しているのです。新約聖書時代に生きていたユダヤ人たちもメシアの来臨を待ち望んでいました。彼らはローマの支配を脱するため、ダビデの子孫であるメシアの来臨を待ち望んだのです。そして主イエスはユダヤ人の王として、メシアとしてお生まれになったのです。しかし、主イエスはその当時のユダヤ人達に希望された王ではなかったのです。すなわち、ローマ帝国からユダヤ人達を政治的にあるいは軍事的に解放するような人ではなかったのです。

 主イエスは神の御子として、そして三位一体の神としてお生まれになったのです。私たちの罪を十字架の上で贖い、復活し、死を打ち破ったのです。そして、私達はこの方が来られた事を祝うのです。

 本日の第二の聖書箇所は主の再臨の事を主イエスがお語りになられています。ルカによる福音書21章25節から28節です。待ち望むとは楽しい事を待ち望むものだと言ったのですが、25節から26節にかけて言えば、何か楽しい事を感じさせず、不吉な事ばかり感じさせます。しかし、残りの部分、すなわち27節から28節にかけては主の再臨の事が書かれています。ここでは世の中で様々な不安な事があるけれども主の再臨を信じることが大切だと語られています。

 ユダヤ人達は多くの困難がありましたが、主の憐れみによって故郷に帰ることが出来、エルサレムを復興することが出来ました。しかし、復興した後もローマの支配などがあり、その支配を脱するためにメシアの来臨を待ち望んだのです。そしてメシアは来られたのです。彼らの考えとは違った形で来られたのです。ですから、彼らは主イエスを十字架に架けたのです。しかし、主はより大きな計画を立てたのです。それが私たち主イエスを信じた者の罪の贖いと救い、そして主イエスの再臨です。そして、周りに様々な不安要素があってもこの事は揺らぐことはありません。この事を信じることこそ信仰なのです。私達はこの信仰をもってアドベント、クリスマスを迎え、さらなる信仰の歩みを続けようではありませんか?

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