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「主の来臨の希望」

2023年12月3日 アドベント第1主日 

説教題:「主の来臨の希望」

聖書 : イザヤ書 52章1節-10節(1148㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 さて、本日は第1アドベント主日です。主イエス・キリストがこの地上に来られる日であるクリスマスを待ちわびる、待ち焦がれる期間の始まりの日というわけです。前にもお話したとは思いますが、アドベントは「来臨」とか「到来」という意味なのですが、元々の意味は「前触れ」とか「予兆」という意味です。つまり何かが起こる前触れを感じる期間ということです。そしてキリストの到来の前触れや予兆を感じる期間、待ちわびる期間となったわけです。さて皆さんは最近何かを待ちわびる経験をされたでしょうか?私は子供の頃は誕生日、クリスマス、お正月、あと夏休み、冬休みなどを待ちわびました。もっとも理由は本当に単純で、誕生日は誕生日パーティをしてもらえる、クリスマスはクリスマスパーティをしてもらえる、お正月であれば、お年玉がもらえる、夏休みや冬休みであれば、当然休めるということで、あまり誉められたものではありませんでした。しかし、最近では何かを待ちわびるということがあまりなくなってしまいました。これはいけないと思っています。ですので、このアドベントの時期はキリストのお誕生を待ちわびたいと思います。

 さて本日の聖書箇所はイザヤ書52章1節です。

「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者があなたの中に攻め込むことは再び起こらない。」 

もう何度か説教で語ってきたのですが、イスラエルの王ソロモンが偶像礼拝によって、主に対する背信の罪を犯します。その罰としてソロモン王の息子の時代に国は2つに分裂します。ユダ王国とイスラエル王国です。そして両国とも主に対して偶像礼拝や国内での不正といった罪を犯し続けます。多くの預言者が主から遣わされ、偶像礼拝をやめ、不正をやめ、主に立ち返るよう、警告しますが、使わされた国々の民は上から下まで預言者の警告を無視し、それどころか、預言者たちを迫害し、殺したりしました。そしてイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、ユダ王国の人々はバビロンに連れて行かれてしまいます。これがバビロン捕囚というものです。

 預言者イザヤはユダ王国に派遣されたのですが、当然ユダ王国に対して厳しい言葉で彼らが主に逆らっている現状を責め、悔い改めて、主に立ち返らなければ、バビロンに滅ぼされると警告しましたが、彼らは逆らって、そのようになり、バビロン捕囚となりました。

 しかし、イザヤはこれだけを預言したのではありません。やがてこのバビロン捕囚という屈辱的な現状は変えられると預言するのです。つまり、捕囚の民としてバビロンに連れてこられたユダヤ人達が故郷に帰るときが来るというのです。実際バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ペルシャのキュロス王によって捕囚のユダヤ人たちは解放されます。

 これまでの経緯をお話するために少し長いお話をしてきましたが、ようするにここでイザヤは故郷への帰還という希望を預言しているのです。「奮い立て、奮い立て 力をまとえ」「輝く衣をまとえ、聖なる都」といった言葉は聞いている人々であるユダヤ人たちを称揚する言葉です。ヨシュア記で主がヨシュアに対して仰った言葉を憶えているでしょうか?「雄々しくあれ、つよくあれ」でしたね。新聖歌486番は「雄々しくあれ つよくあれ」です。

これはヨシュア記をモチーフにしています。

さらに、イザヤは続けます。「無割礼の汚れた者があなたの中に攻め込むことは再び起こらない。」

「無割礼の汚れた者」とは当然バビロニア人を指します。さらに言うならばその他の異邦人を指します。これもご存知かとは思いますが、ユダヤ人たちは割礼をしていました。しかし、異邦人たちは割礼をしていませんでした。そして主に選ばれていない汚れた人達であるという認識をユダヤ人たちは持っていました。実際この考え方は新約聖書時代にも引き継がれていました。使徒言行録でペトロが主の導きで異邦人の所に行き、食事をし、洗礼を授けたことがありましたが、これが仲間のユダヤ人達に非難されたことは前にお話したかと思います。さてイザヤはここで「異邦人が再び攻め込むことがない。」と言い、安心を与えています。つまり、相手を誉め、プライドを持ちなさいと言い、さらには平和が訪れるという安心を与えているのです。平和とはヘブライ語でシャロームと言います。

ですが、この言葉は「こんにちは」という挨拶でも使われます。

私達日本人の感覚では「平和」を「こんにちは」という挨拶にするというのは分かりづらいのですが、それだけユダヤ人にとって「平和」が大切であるということなのかもしれません。

 元に戻ります。「立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。」(2節)

もうバビロンはペルシャによって滅ぼされ、ユダヤ人たちは故郷に帰ってもいい状態なのですが、あえてここでユダヤ人達に故郷エルサレムに帰るよう呼びかけているのはなぜでしょうか?

それは当時ユダヤ人達でも故郷に帰ろうとしない人々もいたからです。もう何十年も異国に暮らしていて生活基盤もこっちにある。いまさら、破壊された、みすぼらしいエルサレムに帰ってどうするんだと思っていたんでしょう。

こういう人々に対してイザヤは主の民としてのプライドを持ちなさい、主があなた達を守られると言っているのです。

 4節、5節ではイスラエルの苦難の歴史を述べています。

4節の「わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。」とあります。これは創世記でヤコブの息子ヨセフが兄弟たちにエジプトへ奴隷として売られたが、やがてエジプトの宰相となり、後にヨセフの兄弟たちとヤコブがエジプトに招かれて、彼らの子孫がそこに住みました。しかし彼らが多くなったのでエジプト人に迫害され奴隷として扱われたので、主がモーセを彼らのリーダ―としてお立てになられ、彼らを(実際には彼らは主に逆らったので彼らの子供たち世代とヨシュアとカレブを)約束の地カナンに導きました。

「アッシリア人は故なくこの民を搾取した。」とはユダ王国も度々アッシリアの侵攻に悩まされました。そしてイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。ちなみに旧約聖書にヨナ書というものがあります。主がヨナにニネベに行き、悪を行っている人々に対して悔い改めるよう呼びかけなさいと命令するのですが、彼はその命令を無視し、彼は逃げます。結局ヨナは逃げられず、最終的に主のご命令どおり、悔い改めるよう呼びかけ、彼らは悔い改めます。なぜヨナは主のご命令に最初逆らったのでしょう。それはニネベがアッシリアの都市だったからです。普段から私達ユダヤ人を脅かしているアッシリア人達をどうしてユダヤ人である私が悔い改めさせなければならないんだ。あんなやつら滅んでしまえばいいんだというのがヨナの考えだったのかも知れません。

 さて元に戻ります。5節ではバビロンで起こった事を述べていますね。つまり、ユダ王国が滅ぼされ、ユダヤ人達がバビロンに捕囚の民として連れてこられました。当然馬鹿にされ、辱められたことでしょう。また、主の御名も侮られたことでしょう。なぜなら、ユダ王国が滅ぼされたということはつまりユダ王国が信奉する(形としてではあったのかもしれませんが)主もまた侮られる運命だからです。旧約聖書の哀歌という書がこれを表しています。お時間があれば読んでみたらよろしいと思います。

ですが、イザヤはこのような現状、つまり侮られている現状でいいのかということです。

そんな現状でいいわけはありません。6節で主はご自分が神であることを知らしめると言っています。ここで重要なことは主はご自身のために知らしめると言っています。前節の5節で「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている」と主は仰っています。

そして6節で「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。」とあり対になっているからです。

 7節は「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」

これはやはりバビロンが倒され、ユダヤ人達が解放され、エルサレムに帰ることができるという良き知らせが人々の間で広まることを意味します。最もパウロはこの箇所を福音・伝道のためにローマの信徒への手紙10章15節で引用しました。

8節で「あなたの見張りは声をあげ皆共に、喜び歌う。」

9節で「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」とあります。

ですから、6節から9節にかけては主の民ユダヤ人が故郷エルサレムに帰り、神殿が再建され、彼らが主の元で一つになって生活するようになることを表しています。エズラ記、ネヘミヤ記を読めばこの事がわかるかと思います。

 もちろんこの当時のユダヤ人達にとってみれば、エルサレムへの帰還、神殿再建、主の元での生活というのはこのイザヤ書6節から9節に書かれていることであったでしょう。ですが、この平和の生活もやがて崩れ去ります。ローマ帝国によって支配されるからです。

本当に「あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」のはいつでしょうか?本当に「歓声を上げ、喜び歌う」のはいつでしょうか?本当に「主の民が贖われる」のはいつでしょうか?

10節では「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」と書かれていますが、これは単なるイスラエルの救い以上のものではないでしょうか?

だからこそ、これこそが主イエス・キリストの来臨を表しているのです。主イエス・キリストの誕生、地上での伝道、十字架の上での死による私達の罪の贖い、復活、栄光です。これこそが私達の希望です。イザヤはこの事を指し示しています。

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