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「主の来臨の希望」

2024年12月1日 アドベント第1主日

説教題:「主の来臨の希望」

聖書 : イザヤ書 2章1-5節(1063㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日はアドベント第1礼拝です。主の御降誕を待ち望む最初の主日礼拝です。先週は収穫感謝日礼拝でした。そして私達はクリスマスに向かって歩んでいくのでこの時期というのは教会にとって一番忙しい時期ではないかと私は考えています。ですがこの忙しさは私たちにとって嫌な忙しさではないと思います。私達は忙しいというと何か嫌だなとかもうちょっとリラックスしたいなと思いがちですね。例えば仕事仕事で休む暇もないということがありました。一つの仕事をしているのに他の仕事をいくつも頼まれる。そんな事できないと悲鳴を上げてしまうと怒られるなんていうこともありました。今となっては懐かしい思い出ですが。ですけれども主のご来臨を待ち望み、クリスマスの準備をすることは仕事で忙しく駆けずり回っていることとは全く違います。先週の収穫感謝日礼拝の後に本日のアドベントの準備のためにロウソクを用意したり、クリスマスの準備のためにクリスマスツリーを飾ったりしたことは私たちにとって楽しい時間であったと思うのです。それは私達の主イエス・キリストをお迎えするためであったということ、そしてそのために教会員一体となって準備をしたことが理由であったと思います。ですがそうした忙しさの中にあっても心の中では静まって主の来臨を待ち望むこともまた必要ではないかなと思います。

 さて本日の聖書箇所ですが、イザヤ書です。預言者イザヤの預言です。もう何度かお話をしているのですが、預言者イザヤはユダ王国で活躍した預言者です。北はイスラエル王国で南はユダ王国というようにユダヤ人の国は2つに分かれてしまっていたわけです。その原因となったのはソロモン王が主を捨てて別の神々を礼拝するという偶像礼拝に陥ったからです。そしてイスラエル王国もユダ王国もまた偶像礼拝を続け、主に逆らい続けました。それだけでなく国内では弱い人々が搾取されていました。そのような国々ですが、主は見捨てずに預言者を送り、人々から偶像礼拝と不正の罪を取り除き、主に引き戻そうとしました。 

 またイスラエル王国もユダ王国も周りに敵対的な国々に囲まれていました。それらの国々が戦争をしかけていつ侵略されてもおかしくない状況が続いていました。なぜそのような状況になっていたんでしょうか?多分私達のようなキリスト者でない歴史学者もしくは社会学者の方々はこのように言うかもしれません。それは多分地政学的な理由でしょう。「元々イスラエル王国やユダ王国があった場所はメソポタミアにあり、その当時の交通の要所にあったから、その地域を支配することは大国の戦略だ。」と。

 ですが聖書では別の見方をします。つまりそれは主の御計画であったということです。主はイスラエル王国とユダ王国に対して敵対する国々を起こさせました。そしてそれらの国々が彼らを攻撃することによって彼らが悪い行いを捨て、主により頼み、主に従って生きるように導いていました。しかし彼らは主により頼まず、人の知恵により頼みました。つまりそういう敵対的な国々と同盟を結んで戦争を回避したりしました。もしくは主により頼むふりをするのですが、本心では主に立ち返らなかったりしました。

 ですがどうでしょうか?彼らは富と虚飾に生きていましたが、心の中では不安で一杯だったのではないでしょうか?同盟を結んではいましたがいつその国が自分たちを滅ぼしに牙を剥くかわからない。そういう不安の中で生活をしていくというのはどうでしょうか?もちろんその当時にも偽預言者が多くいて、「主は私達を助ける。私達は必ず勝つ。」という人々にとって耳触りの良い言葉を言い続けていました。       

ですが最終的にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、住民は捕囚の憂き目にあいました。

 そのような中でのイザヤの預言です。全体を見てみますとユダの幸いを預言しています。ですから、常に侵略されるかもしれないという不安の中で生活をしていたユダヤ人にとっては良い預言であるといえます。しかしそれは表面的な見方に過ぎないのです。ユダ王国は絶対に侵略されない。どんなに主に逆らっても私達は侵略されないんだという預言であれば偽預言者たちと何ら変わらないわけです。

 そうではなく預言者イザヤは未来の事を預言しているわけです。3節を見てみればおわかりかと思います。「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。」この言葉には主に従おうという人々の意思が感じられます。私達は自分勝手にいきますが、それでも主は私達を恵んでくださる。私達を災いに遭わせないなんていうことは書かれていません。そして「主の教えはシオンからエルサレムから出る。」と書かれていますが、どういうことでしょうか?これこそが主イエス・キリストの御降誕のことなのです。主イエス・キリストがこの地上にお生まれになられました。主は数々奇跡と御教を人々に与えました。そして主は人々のそして私達の罪の贖いのために十字架にかかり死んでくださいました。そして死なれただけでなく、復活されて天に帰られました。その事を私達はかみしめなければなりません。

 4節にはこのように書かれています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」イザヤが生きていた時代に戦争があったように戦争はいまだに続いています。イスラエルとハマス、ロシアとウクライナの戦争が続いています。そしていまだに世界はこれを解決出来ずにいます。

 先日、私は施設に入っている貝沼さんを訪問させていただきました。もう何度か訪問していますし、皆さんもその事をご存知だと思います。貝沼さんが憂いているのがこれらの戦争のことなのですね。早くこれらの戦争を止めなければいけない。国連は何をやっているんだということです。これらの戦争の原因はなんでしょうか?それは支配したいということだと思います。いやそれは違うと言われる方々もいらっしゃるかもしれません。自衛のため。テロに屈しないため。そういう見方もあるでしょう。ですが支配したいということが根っこにあります。

これは国と国の争いだけでなく、人間同士でも同じです。自分と意見が違うからと敵対し、その人を様々な手段を使って従わせようとする。自分が正しいのだからそれは正しいとして正当化する。国と人も同じです。そういうことに反対するために主イエスは来られました。互いに愛し合いなさいとは主イエスがお語りになられた言葉です。主イエスはこの世の考えを体現する人々、つまり人を支配する人々によって殺されましたが、復活されました。私達はどちらを選びますか、主イエスの道でしょうか?それとも人を支配するこの世の道ですか?

 いまだに世界は混沌としています。戦争は続いております。人を支配しようとするこの世の考えが蔓延しています。ですが私達はこのようなこの世の考え方に倣うのではなく、私達の腹に仕えるのではなく、主に倣おうではありませんか。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」とイザヤは預言しました。私達もまた主の光の中を歩もうではありませんか。

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