「主の神殿を建てる」
2021年12月5日 待降節(アドベント)第2主日礼拝
説教題:「主の神殿を建てる」
聖書 : 旧約聖書 ハガイ書 1章1-11節(1476㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
物事には優先順位というものがあります。社会人として複数の仕事をしなければいけない時、遅く処理をしても良い仕事またはそれほど重要でない仕事を早く処理しなければならない仕事や重要な仕事より優先してしまいますと後で仕事が終わらないなどといったトラブルになってしまいます。そして、会社の同僚、上司、はては取引先に迷惑をかけることになってしまい、上司から叱責を受け、自分の立場を危うくしたりします。私自身も要領がわるく、このような立場になってしまったことがありますし、また職場の同僚も同時に複数の仕事をこなそうとして、失敗し、上司から優先順位をつけて仕事をしなさいと注意されていたことを目にしました。
優先順位をつけて仕事をするためには何が必要でしょうか?自分がどれくらいの能力を持っているかということを把握し、全体的に複数の仕事を俯瞰(ふかん)し、客観的にどの仕事が急ぐべきものであるかもしくは重要であるかを見極めることです。そうすれば、重要な仕事、急ぎの仕事は自ずと先にできるようになり、それほど重要でない仕事や急がない仕事はあとになります。ですので、たとえ、重要でない仕事や急ぎでない仕事が期日までにできなかったとしても、重要な仕事や急ぎの仕事が期日までにできないことよりは影響が少ないのです。ですから、優先順位をつけて仕事をするということは大切なことです。
いままでは、優先順位をつけて仕事をすることを話してきたのですが、私達は神様との関係で優先順位をつけてしまうことをよくしてしまいます。つまり、私達は自分たちの都合と神様の都合のどちらを選ぶかという選択に迫られることがよくあります。今日は雨だから、礼拝日だけど教会に行くのをやめようとか今日は親戚が来るから教会に行くのをやめようといった具合です。もちろん、必要があって休まれる分には構わないと思うのですが。
今回の聖書箇所はこの神様の都合を優先するか自分の都合を優先するかという優先順位に関わる問題です。「ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨシュアダクの子ヨシュアに臨んだ。」とハガイ書1章1節にあります。
少し背景を説明します。もう何度か皆さんにユダ王国はバビロニア王国によって滅ぼされ、ユダ王国の首都エルサレムにあった神殿は破壊され、宝物は奪われ、都市の建物は破壊され、住んでいた人々のある者は殺され、ある者はバビロンに連れて行かれました。これがバビロン捕囚です。しかし、ペルシャ王国が台頭し、バビロニア王国を滅ぼしました。そのペルシャ王国のクロス王が紀元前538年にバビロンに捕囚として連れてこられたユダヤ人及びその他の人々が故郷に帰るよう布告しました。そして、総督ゼルバベルに導かれ、約5万人のユダヤ人がエルサレムに帰還しました。帰還したユダヤ人たちは神殿の再建工事に取り掛かり、2年後に基礎を完成させたが、サマリア人と周辺異民族の妨害にあい、工事の中断を余儀なくされました。その状態がダレイオス王の時代まで続き、本日の最初の聖句へと続きます。
ダレイオス王はペルシャ王国の王であり、その治世の二年目の六月一日に預言者のハガイがユダの政治的指導者ゼルバベルと霊的指導者のヨシュアに対して預言をしたということです。ユダに限っていうと政治的指導者である総督のゼルバベルと霊的指導者である大祭司ヨシュア、そして預言者のハガイが登場します。これはユダヤ人の国としてあるべき姿であったと言えます。もちろん、この当時、ユダ王国はもう存在していませんでしたが、まだユダ王国がバビロニア王国に滅ぼされていなかった頃、ユダ王国には王という政治的指導者がおり、祭司という霊的指導者がおり、そして神からの使者として預言者がいました。そして、政治的指導者である王や霊的指導者である祭司が神に背き、国が神の御心から離れていくと、神は御自分の使者である預言者を遣わし、警告をして、指導者たちとその国の人々を神に従うように促しました。今回も同様に神は預言者ハガイを通じてユダの総督のゼルバベルと大祭司ヨシュアに警告を発しました。
預言者ハガイが実際に言った言葉を見てみましょう。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。」「万軍の主はこう言われる。」ここで二つの事がわかります。まず、預言者ハガイは自分が好き勝手に言っているのではない、主が語っているのだということを言っているのです。そして、その主は万軍の主である、つまり、最も力のある主であるということ、つまり神であるということです。英語で言えばAll Mighty God オールマイティーゴッドということでしょうか。そして、主は非難されるべき民の行動を指摘なさるのです。
それは何でしょうか?「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」と言い、「この神殿を廃虚のままにしておきながら板ではった家に住んでいる」事です。「板ではった家」というと何かほったて小屋をイメージするかもしれませんが、そうではなく、ここでいうところの「板ではった家」とはレバノン杉を使った豪邸ということです。これらのレバノン杉は本来神殿の再建のために用意されたものだったのですが、基礎は完成したが、サマリヤ人や異民族の妨害にあい工事が止まっていたので、ユダヤ人たちの住宅建設用に使われてしまったのです。そうであれば、主が民に対して怒られるのも当然かと思うのです。
もちろん、当時のユダヤ人たちにも理由があったと思うのです。例えば、サマリヤ人や異邦人の妨害にあって工事が中断しているのだからしょうがないじゃないか。もしくは確かに神殿の再建工事は大切だが、自分たちの住む家も大切だ等など。確かに妨害工作に対処するのは大変ですし、自分が住む場所が確保されずに主の神殿という仕事をすることは不安です。ですが主はユダヤ人たちの心の姿勢を問うているのです。主よりも自分たち自身を優先する彼らの心の態度を問題視しているのです。「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」5節と7節と二回、主は言われています。そして、彼らの主よりも自分たちを優先する姿勢は主を怒らせ、主は彼らの収穫を減らされた。
優先順位を間違えて仕事をすると仕事を成功させることはできず、自分を悪い状況に陥らせてしまうことは説明しました。ましてや主との関係において優先順位を間違える、主を優先すべき所を自分を優先してしまうとどんなひどい状況に陥るかは想像すると恐ろしいと思います。
今、私達の優先順位は何でしょうか?自分のことでしょうか?主のことでしょうか?私達は私達の中にある主の神殿を壊し、廃虚のままとして、自分の家を建ててはいないでしょうか?もし、そうでしたら、もう一度私達はどういう存在かキリスト者とはどういう人かを考えるべきではないでしょうか?私達が主の神殿を建てるときにこそ、私達は主イエスの誕生を心から迎えることができるようになれると思います。
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