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「主の顕現」

2024年9月15日 聖霊降臨節第18主日

説教題:「主の顕現」

聖書 : 歴代誌下 7章11節-16節(679㌻)​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 コミュニケーションというものは大切なものです。それがないと私達の関係はギクシャクします。そしてギクシャクしだしますと、疑心暗鬼になり、相手が自分のことを悪く思っていると思い、お互いに不和になってしまいます。もちろん何かお互いの間で問題があり、けんかに発展しそうであるならば一時的に距離を置くのもありかと思います。今私はコミュニケーションがないということを話しましたが、間違ったコミュニケーションというのもコミュニケーションがないということと同じくらい破壊的なものです。今、兵庫県で問題が起こっていますね。兵庫県のある職員の方が県知事や彼の側近の違法行為やハラスメントを告発しようとしていたら、彼の個人情報を流すとその側近たちや、ある兵庫県県会議員たちが脅していたということが言われています。その職員の告発を嘘八百として知事は行政処分したということです。そして百条委員会なるものが開かれ、知事のハラスメント行為が次々と指摘されました。もちろん、これら指摘されているハラスメントが事実だという前提なのですが、このような知事と職員の関係というのは間違ったコミュニケーションではないかと思いますし、実際に破壊的な影響を関わった人々すべてに与えていると思います。


 それとは逆に良好なコミュニケーションは人間関係を良くします。教会の方々が何気ない事で楽しく会話をしているのを見るのはとても気持ちの良いものです。そういう意味で月の第一日曜日の礼拝後に行われている交わりの時は大切なものです。そして使徒信条にも聖徒の交わりは載っています。

 さて今まで私は人間同士の交わりを話してきましたが、主との交わりはどうでしょうか?本日の聖書箇所ではその事について語っていきたいと思います。説教題も小見出しも「主の顕現」と何か小難しい言葉が書かれていますね。顕現とははっきり現れることです。私達には普段、神である主は見ることは出来ませんし、はっきりとした御声を聞くことも出来ません。しかし、ここでは主が現れて、御声を発せられたのです。

 どういう状況で主が現れたのでしょう。ダビデ王とバテシバとの間に生まれたソロモンがダビデ王の後を継ぎ王となりました。ダビデ王自身が主の神殿を造ろうとしたのですが、主は神殿を造るのはダビデ王ではなく、その子ソロモンであるとダビデにお告げになられました。そしてダビデ王の後を継いだソロモン王が主の神殿を完成させたということです。その神殿は壮大なものであったということです。歴代誌下3章から4章に書かれています。しかし大切なことはこの神殿がただ単に壮大である、素晴らしい祭壇や装飾品で彩られていたということではないということです。そこにはレビ人や祭司たちの詠唱、そして奏者たちの主への賛美があったということです。人間側の主への賛美があったということです。それだけではありません。主の臨在があったということです。

 例えば本日の聖書箇所ではないのですが、「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5章13節から14節)

 礼拝の基本は主を賛美することです。ここではそれが見られます。さらにいうならば主と人とのよいコミュニケーションが見られますね。人々が主を賛美し、主はそれにお答えになられています。主と人々との良い関係が見られるのです。

 ソロモン王がその後祈ります。少し長いのですが、素晴らしい祈りです。歴代誌下6章に書かれています。「ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。」と7章1節にあります。    

つまり主はソロモン王の祈りに応えられたということです。ここに主とソロモン王との良いコミュニケーションがあるのです。良い関係があるのです。「イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝して、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美した。」(7章3節)  

これまで私は祭司たちや奏楽者たちの主の賛美と主の応答、ソロモン王の祈りと主の応答を語ってきましたが、イスラエル人全体が主に対して礼拝をしていることを3節で表しています。つまり、ここに主とイスラエルの全ての人々との良きコミュニケーション、良き交わり、良き関係があるということです。ここには没コミュニケーションやハラスメントなんていうものはありません。素晴らしいではないですか。人々は喜びに満ちていました。それを表している聖書箇所が本日の聖書箇所の直前にありますね。「第七の月の二十三日に王は民を自分たちの天幕に帰らせた。彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルになさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった。」(7章10節)

 「喜び祝い、心は晴れやかであった」これがイスラエルの民の心情でした。彼らは主にあって喜んだのです。そして彼らと同じように私達キリスト者もまた主にあって喜べるよう聖霊様に変えていただけるよう祈っています。

 パウロもフィリピの信徒にこのように言っています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピの信徒への手紙4章4節)


 さて本日の聖書箇所ですが、ソロモン王が神殿と王宮の事について全てを成し遂げた後に、主がソロモン王の前に現れ、話を告げるところから始まります。主は親しくソロモン王に語っています。ここに主とソロモンとの信頼関係を見ます。12節はソロモンにとって良いことです。主がソロモン王の祈りを聞き、ソロモンが捧げた神殿を自らの神殿として受け入れたのですから。

 ですが、次の13節ではイスラエルの民にとって悪い知らせです。雨が降らなくなる、いわゆる干ばつですね。いなごの害、疫病の害などですね。雨が降らなくなると聞いて何を思われますか? この後の時代、アハブ王を筆頭にイスラエルの民が主に背き偶像礼拝を行ったことに対して主は憤り、預言者エリヤを通して数年間雨が降らなくなるという宣言をされました。事実そのようになりました。いなごの害は出エジプトでイスラエルの民をなかなか出て行かせないファラオに憤った主がいなごをエジプトの地に来させました。疫病はイスラエルの民が指導者であるモーセとアロンに逆らった時に主がイスラエルの民に怒りを発し、民の間に流行しました。主はこれらの害をご自分の民に送ると言っているのです。なんで主はご自分の民を苦しめるのか?そんなの理屈に合わない。主は私達の神なのだからそんなことすべきではないと思われるかもしれません。

 しかしそれには理由があります。次の14節です。「悪の道を捨てて、罪を赦し」という言葉がありますね。つまりイスラエルの民が何かしらの罪を犯し、悪を行ったからということがこの言葉でわかるかと思います。どんな悪いことをしても主は許可されるということは無いと思います。ですが主は憐れみ深い方であるから悔い改めた人々を赦すのです。15節から16節で主は捧げられた神殿にご自身の御目をそそぎ、聖別し、心を寄せると仰っている。この言葉は12節で主が仰った言葉を強めている。主はこの神殿を大切に思っているということだがそれだけではないということです。主が大切に思っている、愛している対象は神殿だけではなく、その神殿を捧げたイスラエルの民であると言っているのです。 申命記7章6節にこう書かれている。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」         

ここに主のイスラエルの民に対する愛がある。そしてそれは本日の聖書箇所15節から16節で直接民の事について触れられていないが、捧げられた神殿を主が大切にするということを通して伝わってくる。そして私達キリスト者もまた主イエス・キリストの私達の罪の贖い、主からの一方的な恵み、そして信仰を通してこの宝の民に加えられたということです。私達もまた主に愛されているのです。

 そして大切なことは主との良き関係を大事にするということです。決して捨ててはいけません。



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