「主を尋ね求めよ」
2023年12月31日 降誕節第1主日
説教題:「主を尋ね求めよ」
聖書 : イザヤ書 55章6節-13節(1152㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
今日は12月31日、大晦日、2023年最後の日です。このような日に皆さんと一緒に礼拝出来ることを心から感謝しております。思えばあっという間の一年ではありましたが、この一年私達が主に守られたことを感謝いたします。また来年も私達が主を賛美しつつ、信仰によって歩むことが出来るよう主に祈っております。
さて本日の聖書箇所です。イザヤ書です。つまり預言者の書ですね。預言者と言えばもう何度も私は言ってきたのですが、主に背いたイスラエルの民に主に立ち帰るよう警告し続けた人物、主から派遣されたメッセンジャーです。イザヤもまたその預言者の一人であります。そしてイザヤ書は大預言書と呼ばれています。預言書は大預言書と小預言書に区分されます。大預言書は量が多いので大預言書と呼ばれ、小預言書は量が少ないから小預言書と呼ばれます。量が少ないからといって価値が小さいということではありません。小預言書の中にも聖書の中で重要な位置づけの書もあります。以前お話したマラキ書は旧約聖書の最後の書です。この書は3章しかありませんが、旧約聖書から新約聖書へと繋がる重要な役目を担っていると以前申し上げました。ですので、大預言書は小預言書より価値があるとか大預言書の預言者は小預言書の預言者より価値があるということではありません。
ここで大預言書と小預言書を述べておきたいと思います。
大預言書はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書です。小預言書はホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書です。
ではこの大預言書のイザヤ書ですが、2つに区分されます。
1章から39章までを第1イザヤとし、40章から66章までを第2イザヤとするものです。この第1イザヤが紀元前700年頃に預言者イザヤ本人が語ったものであるとし、捕囚前の不正と偶像礼拝にまみれたユダ王国の民に対する裁きが語られています。
第2イザヤはイザヤ本人が語ったものではなく、イザヤの弟子達もしくは弟子の一人であったということです。そしてバビロン捕囚時から帰還後に書かれた書であり、彼らの救いと故郷への帰還、希望について書かれていて、さらにそこから発展して異邦人の救い、世界規模の救いへと発展します。
さらに第2イザヤを2つに分けるという考え方もあります。40章から55章までを一区切り、そして56章から66章までを一区切りということです。
つまり1章から39章までを第1イザヤとする。著者は預言者イザヤ本人であり、書かれた時期は捕囚前である。目的は偶像礼拝や不正にまみれたユダ王国への警告である。
40章から55章までを第2イザヤとする。著者は預言者イザヤの弟子達もしくはある特定の弟子による。書かれた時期はバビロン捕囚時である。彼らの救いと故郷への帰還、希望について述べられている。
56章から66章までを第3イザヤとする。著者は第2イザヤの弟子達または特定の弟子である。書かれた時期はエルサレムに帰還後である。内容は第2イザヤの内容を踏まえつつも、エルサレムの救いだけではなく、異邦人の救い、世界規模の救いである。
さて随分とイザヤ書の話が大きくというか、少し詳細にしてしまったのですが、そうすることによってイザヤ書が単なる捕囚前の偶像崇拝や不正にまみれたユダ王国の民に対する警告だけではないということをわかっていただきたく思い説明させていただきました。本日の聖書箇所の55章6節から13節は第2イザヤです。
つまり預言者イザヤの弟子達もしくは特定の弟子によって書かれた書です。そしてバビロン捕囚時に書かれた書で、民の救い、故郷への帰還や希望を述べている箇所です。
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(イザヤ書55章6節)
さて当時の民の状態はどうだったでしょうか?国はバビロンによって滅ぼされ民はバビロンに捕囚され、苦痛に満ちた生活を始めるか、貧しい民はそのまま破壊しつくされ荒廃したエルサレムに残されました。当時の考え方では国が敗れるということはその国の神が敗れるということを意味します。彼らが果たして主を拝めるような状態だったでしょうか?私達の国は敗れた。私達の神は敗れた。私達は奴隷だ。私達は見放された。
彼らの心情を歌った歌が詩篇にあります。
「バビロンの流れのほとりに座りシオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が歌をうたえと言うからわたしたちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか主のための歌を、異教の地で。」
(詩篇137章1節から4節)
このような絶望に満ちた彼らに「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」と呼びかけられるのは酷ではないかと思われるかも知れません。
果たしてそうでしょうか?確かに彼らは遠くバビロンに連れてこられました。ここには主の神殿もありませんし、礼拝など公に出来なかったでしょう。馬鹿にされるか、嫌がらせをされるか、もしかすると逮捕され虐待されるかも知れなかったからです。
ですが、私はこの言葉には2つの意味があると思うのです。
まず一つは彼らに反省を促すということです。確かに今は捕囚の地にあって「見出しうるとき」でもなく「近くにいます」時でもありません。では捕囚前はどうだったのかということです。彼らは「見出しうるとき、近くにいますうち」にいたではないかということです。ですが、彼らは主を尋ね求めなかった。彼らは主を呼び求めなかった。だからこのような結果になったのではないかと言っているのです。
もう一つの意味はこのようなバビロンの地で主から離れている状態であっても主を尋ね求めることを主は願っているということです。この民は主が選ばれた民です。もちろん彼らは度々反抗してきました。ですが、主はこの民が離れている状態でいいなんて思ってはいないのです。主は何度も何度も預言者達を通して立ち帰るように呼びかけてきました。これらは旧約聖書でのことですが、これは新約聖書にも受け継がれています。放蕩息子の話は皆さんもご存知でしょう。そして主イエスも反抗的なユダヤ人達に対してこのように言っています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
(ルカによる福音書13章34節)
ここに主の愛があるのです。何度も何度も主に逆らうユダヤ人達に対して手を差し伸べてきたのです。
だからこその6節の言葉になるのです。7節もまた同じです。
主への立ち返りを促しています。
8節と9節は主と私達の違いを述べています。もちろん主は私達とは違います。ですが、しばしば私達はそのことを混同してしまいます。先程も申し上げたのですが、その当時のユダヤ人達の考え方とは何でしょうか?私達の国はバビロンに敗れた。私達の神も彼らに敗れたということです。目の前の現実に打ちひしがれているのです。加えてバビロンの住民からは嫌がらせを受けているのです。戦勝国の住民と敗戦国の住民の違いです。そんなユダヤ人達に主はあなた達のそのような考え方は間違っているというのです。
今を生きる私達にも言えることです。目の前の現実に打ちひしがれるということはよくあることです。もちろん私達は目の前の現実に対処しなければいけないのですが、それだけで生きるのであればそれは一般人です。そうではなく目に見えないものを私達は信じているのです。それが信仰です。ヘブライ人への手紙11章に書かれていることを思い出してください。ですからユダヤ人たちは一般人に成り果て、見えないものを信じる信仰を失ってしまったのです。
そのような信仰を失った一般人のユダヤ人に主は宣言されるのです。私はあなた達とは違うと。つまり主には彼らの考えが遠く及ばぬご計画があると仰っているのです。主のご計画の深遠さについては使徒パウロがこのように言っています。
「あなたがた(異邦人キリスト者)は、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(ユダヤ人達)の不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも(ユダヤ人達)、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
(ローマの信徒への手紙11章30節から33節)
イザヤ書10章には主がいかにこの天地を治めており、人を養っておられるか、そして11章では主の御言葉がいかに大切で意味のあることであるかを語ってらっしゃいます。
目の前の現実しか見えていないユダヤ人達にとってはもしかするとこれら第2イザヤの預言など戯言に聞こえたかもしれない。
しかし彼らはペルシャによって解放され、故郷に帰ることが出来ました。ですが、この前話したように真に主に立ち帰ることが出来なかったのです。
バビロン捕囚を起こしたのも主であり、故郷に帰らせたのも主である。バビロン捕囚の原因は民の主に対する反抗による。しかし、彼らはその事を主がおられなかったからだ、主が弱かったからだと考え、主に反抗し続けた。故郷に帰ってからもそうでした。
民の反抗は新約の時代まで続いた。だからこそ、主イエスがあのようなことを仰いました。
私達はどうでしょうか?彼らのように目の前の現実にのみ心動かされ主を蔑ろにしてはいないでしょうか?
私達は主を尋ね求めているでしょうか?
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