「主を忘れること」
2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝
説教題:「主を忘れること」
聖書 : 旧約聖書 申命記 8章11-20節(294㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達はしばしば忘れるということをしてしまいます。あまりにも忙しすぎて、スケジュール表にきちんと予定を書いているにも関わらず、本来するべき仕事や人と会う予定を忘れたりすることがあります。また、買い物に行く時買い忘れることや、人の名前が思い出せないこと、今日食べた朝食や昼食のメニューが思い出せないことなど挙げれば、きりがありません。私自身もそうですし、信者さんからも時々聞かされることです。もちろん、ある程度の物忘れはあっても致し方ないと思いますが、それが深刻な病気であることも考えられますので注意が必要です。
しかし、今回は私達がそうした日常で忘れてしまうという事ではなく、大切な事、主を忘れてしまうという事です。本日の聖書の箇所は申命記です。これは死にゆくモーセがイスラエルの民に語った言葉です。いわばモーセの遺言であり、その内容は警告と祝福と言ってもいいです。その中で、モーセは彼らに「主を忘れるな」と警告しています。11節にはこのように書かれています。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。」これはイスラエルの民が主なる神を捨て、神が民に与えた律法を守らなくなることへの警告です。なぜ、モーセはそのような警告を彼らに与えたのでしょうか?それは次の12節から14節の前半部分に書かれています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、」とあります。「衣食住」が確保され、必要以上に富を持ってしまうと、心におごりが出てしまうとモーセは警告しているのです。
もちろん、経済的に豊かな人物が必ずしも神を捨てるというわけではありません。聖書に出てくる経済的に豊かな人物で信仰心のあった人々はおりました。アブラハム、ヨセフ、ヨブ、そしてダニエルなどを思い浮かべることが出来ます。しかし、主イエスが金持ちの青年に、「自分の財産を貧しい人々に分け与えて、主イエスに従ってきなさい。」と仰られた時、青年が従いきれなかったように富には一種の魔力があると思います。それは人を神から遠ざける力です。ソロモンはどうでしょうか?初めは神に従っていましたが、豊かになり、神よりも政略結婚による政治に頼り、結果、彼と結婚した妻たちが異国の神々を持ち込み、ソロモンは神を捨てました。富の力はおごりをも生みます。モーセは17節でこのおごりをさらに具体的に言い表しています。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。」これがおごりです。人は経済的に豊かになるとこのように考えがちになります。たぶん、皆さんもこのように考えるもしくはこのようなことを言う人を見かけたことがあるかと思います。無宗教の方々であれば、そのように考えるかもしれません。しかし、私達キリスト者であってもこのようなおごりを持つ可能性があります。
たぶん、皆さんはこのように考えられるかもしれません。私はそんなに経済的に成功したお金持ちでもないし、そんなこと関係ない。私達はなにがしかのプライドを持って生活しています。たとえ、それが世間一般的に見れば、取るに足らないものであっても、その小さなプライドや成功体験がやがて他者に対して優れているという優越感に繋がるかもしれません。その優越感がやがてその人に神無き道を選ばせるかもしれないのです。どうしたら良いでしょうか?
モーセはイスラエルの民にこう言いました。「主を思い起こしなさい」(18節)「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」(14節〜16節)彼は主なる神があなたたちイスラエルの民を具体的に救ったことを思い起こしなさいと言っているのです。しかし、彼らはこのモーセの言葉を忘れ、神の律法を捨て、神を捨て去りました。以前にもお話しましたが、旧約聖書の士師記を読んでみますと、イスラエルの人々が何度も主なる神に背き、その背きの罪のせいで、主なる神は他の民族がイスラエルの人々の領地に侵入し、彼らを脅かすのを許したことが分かります。そして、彼らは反省し、主なる神に助けを求め、主なる神は助けるのですが、暫く経つと、また彼らは主なる神に反抗するということの繰り返しです。そして、ソロモン王亡き後、ソロモン王の主なる神に対しての逆らいによって国はユダ王国とイスラエル王国に分裂するのですが、双方の国は主に逆らい、国内には不法が見られました。主なる神は預言者を送りましたが、彼らは聞き従わず、双方の国は滅ぼされました。まさしく、モーセが言ったとおりの事が現実に起こったのです。(18節から19節)
ここで重要なことはモーセが言われた「あなたの神、主を思い起こしなさい」ということです。ですが、いささか彼が言った事とニュアンスが違います。もちろん、私達キリスト者にとっても、主なる神がイスラエルの民を救われた偉大な御業は大切なことです。しかし、私達にとってさらに大切なことは主イエスの十字架です。主なる神はエジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放し、荒れ野で彼らを養った。しかし、主イエスは罪と死の奴隷であった私達を解放されたのです。私達が思い起こすべきことはこの事です。さらに、言うならば、私達が救われた日のことを、主イエスを受け入れた日の事を思い起こすべきなのです。もっと言うならば、これは願っているのですが、思い起こすだけでなく、主イエスが日々私達の中で生きてほしいのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2章19節-20節でこう言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
このように、わたしたちが主イエスの十字架を思い起こし、私達が救われた体験を思い起こし、なおかつ、主イエスが私達の中で日々生きるためにはどうしたら良いでしょうか?礼拝や祈祷会に参加する、日々の聖書箇所を読む、祈ることなどが必要でしょう。
なぜなら、世の力というものは強く、私達は、日々世の中で正しいと思われる価値観を知らず知らずに受け入れてしまいがちになるからです。しかし、礼拝や祈祷会への参加や聖書を読むことや祈ることといったデボーションも神の御心を知り、聖霊が働かなければなりません。形だけの礼拝とデボーションというのもあるのです。
私達が真摯(しんし)に神と向き合おうとすることを神は侮(あなど)りません。その時こそ、神は真摯に私達に向き合い、私達を受け入れ、聖霊が働くのです。
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