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「主を誇りとする」

2023年2月5日 降誕節第7主日

説教題:「主を誇りとする」

聖書 : 旧約聖書 エレミヤ書 9章22節-23節(1194㌻)

   新約聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 1章29節-31節(300㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 誇りというものは私達が人生を生きていく上で精神的に必要なものです。ただ食べて、飲んで、寝て、生きるということはただ生物的に生きているに過ぎません。それは不健康ではないかと思うのです。ですから私達が学業であれ、経済的な状況であれ、社会的地位であれ、スポーツであれ、それらの分野で秀でた成績を獲得し、その事に誇りを持つことは私達がただ単に生物的に生きるという不健康な状態から防いでくれます。

 例えばオリンピックで金メダルをとった人々のインタビューを聞いてみると、大抵は嬉しさと自信に満ちあふれています。そして聞いている私達まで嬉しくなってしまいます。そして彼もしくは彼女にとってこの金メダルを獲得したということはこれからの人生を歩む上で誇りとなると思います。そしてこの誇りを持って人生を歩むことによって彼らの人生をよりポジティブに歩めると思うのです。


 ですが、本日の第1の聖書個所エレミヤ書9章22節で主は預言者エレミヤの口を通してこのようにお語りになっています。

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。」

先程私が言ったように何かに秀でた事に誇りを持つことによって人生をより豊かに歩む事ができます。つまり誇りを持つということは肯定的だと考えられるのです。成功者と言われる人たちは往々にして魅力的な人物たちです。しかし、主は誇りを持つことを否定的に捉えておられます。


 確かに何かに成功した人物がその成功を自慢するというのは周りの人間にとっては鼻につくこともあります。学歴、社会的地位、年収や資産を自慢するというのはよくあることなのですが、不快に思う人々がいるのもまた事実です。もちろん、不快に思うこと自体やっかみであるという批判もあることでしょう。またやっかみだけならまだしも、相手より自分の方が優れているということを示すためにマウントの取り合いや争いに発展することもあります。そして経済的な事をテレビ番組で誇示してしまったために犯罪に巻き込まれてしまったという例も過去にありました。

確かに今挙げた事例は自分たちの成功を誇りとすることの否定的な部分です。しかし、私達が誇りとすることを主が否定なさるのはこのような人間的な理由からでしょうか?

そうではなく誇りとすることが主との関係を断つことに繋がるからです。主は「知恵を誇るな、力を誇るな、富を誇るな」と仰いました。それは知恵、力(当時で言えば武力)、富が偶像になり、神になり、本当の神である主を捨て去るからです。もしくは知恵を持っている自分、力を持っている自分、富を持っている自分を神としてしまい、主を捨て去るからです。

 預言者エレミヤは南ユダ王国時代に活躍した人物でした。紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半までのバビロン捕囚期まで活躍しました。当時この王国は主に逆らい偶像礼拝に走り国内には不正が蔓延っていました。つまり、この国の人々、特に特権階級と呼ばれる人々は知恵を誇り、力を誇り、富を誇り、それらを所有している自分たちを誇っており、主から離れていたのです。ですから主は預言者エレミヤを人々に遣わし悔い改めて主に立ち返るよう求めたのですが、人々はご存知のように彼を迫害し、主に立ち返ることをしませんでした。ですから人々はバビロン捕囚という憂き目に遭ったのです。

 もしかすると皆さんはこう考えているのかもしれません。これは主イエスがお生まれするよりもずっと前の国の出来事じゃないか。確か紀元前7世紀?6世紀ですか。その当時と比べて人々はずっと進化している。人権といった権利に対する考え方もずっと進んだ。人間はもっと賢くなった。だからこんな昔の事を持ち出す事に何の意味があるのかと。

 果たしてそうでしょうか?皆さんの周りをよく見て下さい。先程ウクライナ・ロシアの平和のための祈りを祈りましたが未だに武力によって他国を侵略しようとする国が存在します。最近巷を騒がしている国際的な強盗事件はどうでしょうか?ユーチューバーと呼ばれている人たちの多くは問題を引き起こしていますが、自分を悪い意味でアピールし、マウントを取り、お互いに攻撃しています。

また飲食店での迷惑行為をインターネットにアップロードするなどしています。本来迷惑行為もしくは犯罪行為は隠すものですが、それをアップロードするという愚行をするのです。これは愚行に愚行を重ねることです。テクノロジーは進化していますが、人間の倫理感は南ユダ王国の時代の人々と変わりないのではないでしょうか?つまりどれだけ時代が進んでも人間の本質は変わりないのではないでしょうか?


 だからこそ自分に誇りを持ってはいけないのです。

知恵(学業や会社での成績)ある自分、力(政治的影響力や社会的影響力)ある自分に、富(金銭、資産)ある自分に誇りを持ってはいけないのです。もちろん自分自身を否定することはないのです。ですが知恵、力、富というものは自分自身の高ぶりを招き、他者を傷つけます。そして何よりも主から自分を遠ざけるのです。結果はどうでしょうか?このエレミヤ書によれば人々はバビロン捕囚という目に遭いました。私達の周りであれば戦争、犯罪、迷惑行為、不愉快な言動です。果たしてそれらは主が私達に望まれているものでしょうか?


 ですから私達自身を誇りとしてはならないのです。むしろ知恵、力、富を持っているのでしたら、それを与えてくださった主に感謝するのです。私達自身を誇りとするのではなく、主を誇りとするのです。

「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ書9章23節)

本日の第2の聖書個所でも主を誇りとすることの重要性が使徒パウロによって説かれています。

「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

(Iコリントの信徒への手紙1章29節から31節)

当時コリントの教会には問題がありました。分裂です。信者はパウロにつく、アポロにつく、ケファにつく、キリストにつくと言って争っていました。この事をパウロはこのように批判しています。

「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」

(Iコリントの信徒への手紙1章13節)

何が彼らをそうさせたのでしょうか?表面上彼らはパウロに、アポロに、ケファに、キリストにと言ってここに挙げられた人物たちを尊敬しているように見えます。しかし、彼らの根底にあるのはここにあげた人物たちの派閥に属することによって教会を支配したいという利己心、悪い意味での誇りではないでしょうか?それは当時の南ユダ王国の人々と同じことです。今日で言えば政治団体の何々派と言って争っている状態でしょうか。だからこそパウロはさらにこのように批判しているのです。

「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」

(Iコリントの信徒への手紙3章3-4節)

ですから自分自身を誇りとするのをやめ、主を誇りとしましょう。もし自分に何か才能があるとするならばそれは主からの恵みとして主に感謝し、主のために使いましょう。肉の人ではなく、霊の人として生きることができるよう主に祈りましょう。

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