「主を避けどころとする」
2022年2月27日 降誕節第10主日
説教題:「主を避けどころとする」
聖書 : 旧約聖書 詩編 91章9-16節(930㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
今の世の中を表しているのは「不安」「多様性」といった言葉ではないでしょうか?
「不安」という事でまず思い浮かべる事は、2020年初頭の頃から約2年続いている新型コロナウィルスでしょう。最初は「大した事はない。」「騒ぎすぎる」という楽観的な考えがあったのですが、徐々に世界的規模の広がりを見せており、未だ収まる気配を見せません。ソーシャルディスタンス、マスクの着用、スーパー、飲食店、娯楽施設の時短、会食、旅行、各種行事の規制といったことを私達は強いられてきます。蔓延防止法や緊急事態宣言の発令、学校や幼稚園、保育園などでのクラスター発生とそれに伴う、休校や休園、そして感染され、本来入院しなければいけないのにも関わらず、病院に受け入れられず、自宅療養を余儀なくされている方々のニュースは私達を陰鬱とさせます。そして、もしかすると自分達もコロナに感染し、この人達と同じ様な目に遭うかもしれないと考えると不安になってしまうのは私だけでなく多くの方々の共通した思いだと思います。ワイドショーなどでこの事に関して専門家、自称専門家、そしてこの事に関しては素人のテレビタレント達が様々な事を話していますが、何かこれといって決定的な解決策を提示するでもありません。そして、それが、私達をさらに不安にさせるのです。
新型コロナウィルスの事だけでも私達を不安にさせるのに、国際政治、経済、軍事でも私達を不安にさせることが起こってしまいました。ロシアがウクライナに軍事侵攻したのです。第二次世界大戦後もベトナム戦争、アフガン戦争、イラン・イラク戦争、など数々の戦争が起こってきたのですが、ロシアという大国が軍事侵攻したのです。国連でアメリカなどはウクライナからの撤退決議案を提案するのでしょうが、ロシアは当然反対するでしょう。そして、国連の安全保障理事会の決議は常任理事国の一国でも反対すれば、否決されます。そして、ロシアは常任理事国ですので、この撤退決議案は否決されるでしょう。加えてもう一つの常任理事国である中国政府がこれまでのところロシアの行動を容認する発言をしているので、安全保障理事会でこの撤退案に反対するまではいかないまでも、棄権するかもしれません。そして、これまでのところ、アメリカ、ヨーロッパ諸国はロシアに対して経済制裁をすると言っていますが、軍事的な行動は取らないと言っています。それはウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に入っていないからだそうですが、これでロシアの軍事侵攻を実力で排除することが出来なくなりました。さらに、ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用もありうることを示唆し、これもアメリカやヨーロッパ諸国の軍事的対抗を取りづらくさせています。さらに、日本も含めてなのですが、アメリカやヨーロッパ諸国が経済制裁をしても、ロシアは資源大国ですし、中国がロシアを助ける可能性もあるので、あまり効果がないと考えられます。これまでも私達は湾岸戦争、中東戦争などの局地的な戦争、テロリストの集団によるテロ行為、タリバンなどの軍事政権による圧政などに心を痛めてきましたが、今回はロシアという核兵器を持つ軍事大国、国連の常任理事国、そして天然資源を持っている大国がこのような軍事侵攻を行い、その軍事侵攻を世界の誰も止めることが出来ていません。もちろん、最終的に落ち着くところに落ち着くと思うのですが、私達はこの事を不安に思うのは当然の事だと考えます。
問題はこれらの不安だけでなく、これらの不安に対して様々な見解があるということなのです。もちろん、様々な見解があるということは言論の自由という意味で健全なのですが、マスコミなどの意見を見てみますと、何か専門家、自称専門家、そして素人のテレビタレントが無責任に発言している気がするのです。つまり、実際に不安を与える事柄(新型コロナウィルス、ロシアのウクライナに対する軍事侵攻)とその不安を煽(あお)るような無責任な言動に私達は振り回されているのではないでしょうか?
そしてそのような言動を容認することとして、「多様性」という言葉英語で言えばダイバーシティというのですが、この言葉も少し前から普及してきたのではないかと考えるのです。確かに世の中には様々な考え方の人がおりますし、多くの国々の方々、様々な人種の方々が日本に住んでいらっしゃるのでそういう方々を受け入れる、彼らの考え方を受け入れることによって、よりよい社会を作っていくことは健全なことだと思うのです。しかし、何でもかんでも受け入れるというのはどうかと考えるのです。つまり、「多様性」の名の元にどんなひどい発言をしても許される、どんな行動をとっても良いのだというのはどうかと思うのです。インターネット、ソーシャルメディアでの匿名性の元に誹謗中傷する。また、すべての人々ではないにせよ、ユーチューバーの方々は閲覧数を上げるため、ひどい言動をし、それらがたとえ犯罪行為であっても、「多様性」という名でもって容認されるという風潮があります。これはいわゆる「すり替え」というものです。しかし、注意しないと私達はこの事に気づかないで、こういったことを容認していってしまうのです。
ではどうしたら私達はこのような「不安」に一喜一憂しないように出来るでしょうか?聞こえのよい、すり替えられた「多様性」に取り込まれないようにするにはどうしたら良いでしょうか?それは主イエスを中心とする生活をするということです。「あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。」と本日の聖書箇所91章9節にあります。本日の聖書箇所全体を通してみると、主に信頼すると災いに遭うことはないという趣旨の事が書かれています。しかし、私達クリスチャンは必ずしもそうではないということを知っています。主に従ったからといって苦難はやってくるのです。本日の聖書箇所はうそを教えているのでしょうか?そうではないと思います。苦難、誘惑といったたぐいのものはクリスチャンであろうと、なかろうとやってきますが、主はクリスチャンに必ず逃れの道を用意してくれます。さらに、クリスチャンは苦難や誘惑を通して成長することができるのです。パウロはこのように言っています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5章3節から4節)
大切なことは私達の生き方の中心を主イエスに置くということなのです。なぜ、人々は様々な「不安」や無責任な人々の様々な「意見」に右往左往するのでしょうか?それはその人々の中に中心となるものがないのです。背骨がないのです。中心となるもの、背骨となるものがその人にあれば、その人はぶれないのです。
では、私達クリスチャンは何を中心とすべきでしょうか?何を背骨とすべきでしょうか?それは主イエス・キリストです。
先週の木曜日の祈祷会で長い間学んできたリック・ウォレン著の「人生を導く5つの目的の学び」を私達は終えました。とても有意義な学びであったと思います。その中で一番大切なことは私達の人生の中心は神でなければならないということです。この本の最後の40章でこの事が強調されていました。「アサ王は、ユダの人々に『神を自分たちの人生の中心に据えるようにと命じました』」
「パウロは言っています。『キリストがあなたがたの心の中でさらにくつろぐことができるようにと祈っています。』」
私達の人生の中心は神でしょうか?私達の心の中でキリストがくつろいでいるでしょうか?
さらに、本書は続けます。「神が中心におられる時には、あなたは礼拝をささげます。しかし神が中心におられない時にはあなたは心配するようになるのです。心配は神を脇に押しやってしまったというしるしです。神を中心にした瞬間、あなたは平安を取り戻すでしょう。」
もちろん、心配事に対して現実的に対処しなければならないのも事実です。そのことをおろそかにしなさいと言っているのではありません。しかし、「心配」「不安」に押しつぶされてしまってはいけないということなのです。それを防ぐためには私達の人生の中心を神に置くということなのです。
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