「二人の犯罪人」
2023年4月2日 受難節第6主日(棕櫚の主日)
説教題:「二人の犯罪人」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 23章32節-43節(158㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は棕櫚(しゅろ)の主日です。この日に主イエスはイスラエルの首都であるエルサレムで歓呼の声で人々に迎えられました。人々は自分の上着や棕櫚(しゅろ)の葉を子ロバに乗られている主イエスが通られる道の上に置いて主イエスを迎えられました。ですから棕櫚の主日と呼ばれているのです。しかし、この日は受難週の始まりも意味しています。受難節はもう既に始まっているのですが、今週の金曜日は主イエスが十字架にお掛かりになられた受難日です。ですので、さらにと申しますか、主イエスのこのご受難を思い起こさなければなりません。この受難週は土曜日まで続きます。
主イエスは数日前人々から喜んで迎えられたにも関わらず、一変逮捕され、裁判を受け、暴行され、侮辱されてこの刑場にいるのです。この場面に出てくるのは主イエス、二人の犯罪人、議員たち、民衆、兵士たちです。最初に主イエスと共に二人の犯罪人が登場するのですが、主イエスも含めて十字架に架けられる事が32節から33節まで淡々と語られていきます。
そして、主イエスはこう言われたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)
人を赦すことは難しいことです。人から何か嫌なことをされた、傷つけられることによって、その傷はいつまでもその人の心の中に残り、恨みに思ってしまうということがあります。以前話したかもしれませんが、私は超教派の牧師の学びの会に参加しています。
そこで使っていた「福音中心の人生」というテキストで赦しのセクションがありました。そこでは私達の身の回りで起こった人から傷つけられた事を取り上げて、「どうしたらその人を赦せるのか?」、「何がその赦しを妨げているのか?」などを話し合いました。ですがやがて福音が私達をこの恨みを含めたあらゆる罪から解放するということに行き当たりました。主イエスはご自身を十字架に架けて殺し、罵倒し、屈辱を与えている人々の罪を赦してくれと父なる神に嘆願しています。普通であればありえないことです。むしろ、人々を罵倒し返し、呪ってもおかしくないところです。
ここに愛があり、赦しがあるのです。しかし同じ34節で人々はどうしていたでしょうか?「くじを引いて、イエスの服を分け合っていた」主イエスは彼らの罪をお赦しになられている中で、彼らは主イエスの服を分け合っていた。さながら強盗で奪った戦利品、分前を分けるように。主イエスとこの人々との態度はあまりにも対照的ではありませんか。もちろん、彼らにとっては主イエスの仰った事など戯言(ざれごと)にすぎないと思っていたことでしょう。
「俺たちの罪を赦してくださいだと何を言っているんだ。自分が犯罪人としてこれから処刑されるのに。」と思ったのかもしれません。
35節で議員たちはこのように言ってあざ笑いました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
37節で兵士たちは主イエスを侮辱しました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
主イエスが人々の罪を赦し、かつ父なる神に赦しを嘆願しているのに人々は主イエスの服をくじで分け合い、議員たちも兵士たちも主イエスを侮辱し続ける。この対照的な構図こそが主イエスが神の御子であり、私達が罪人であるということです。主イエスは私達の罪を十字架の上で贖い、必死に父なる神に私達の赦しを嘆願し続けているのに、そのまさに目の前で罪を犯し続けているのです。
彼らは私達なのです。
さて、この日主イエスと共に十字架に架けられた犯罪人は二人いました。一人は他の人々と同様に主イエスをののしり、このように言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
(ルカによる福音書23章39節)
十字架に架けられるのはよほど悪いことをした人間だそうです。そして死刑囚でもありますから、自暴自棄なわけです。もう生きる望みもないわけです。ですから彼が罵詈雑言を吐き、悪態をついたとしても当然なわけですね。もしかするとやっかみもあり、彼はこのように考えたかもしれません。「メシアだ何だと人からちやほやされたって、結局は俺たち犯罪人と同じように十字架に掛けられ、殺されるんじゃないか」
こういうことが相まって彼が主イエスに対して暴言を言ったのかもしれません。
ですが、ここに今まで出てきた人たちとは違った人がいます。
もう一人の犯罪人です。彼も十字架に掛けられるほどひどい犯罪を犯したのです。彼もまたもう一人の犯罪人と状況は一緒です。これから処刑されるのです。未来はないのです。自暴自棄になり「どうせ殺されるのだから、このイエスという男を罵(ののし)って、うさをはらしてやろう。」と思い、それを行動におこしていいはずでした。ですが、彼は違いました。彼は主イエスを罵(ののし)っているもう一人の犯罪人を諌(いさ)め、自分の罪を悔い改めたのです。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」
(ルカによる福音書23章40節から41節)
さらに、彼は主イエスが無実であるということを宣言します。
「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(41節)
さらに、彼は主イエスが神の御子であること、御国の権威を持っていること、これで、この死で終わりでないということ、そして彼の命を主イエスに預けることを宣言します。
42節に彼が発した言葉に表れています。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
この犯罪人に対して主イエスは何とお答えになられたでしょうか?
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」です。(43節)
英国にジョン・ウェスレーという牧師がおりました。彼は私達ナザレン教団に影響を与えたメソジスト教会の創立者でありました。彼はただ単に牧師であったというだけでなく、その組織力で当時、学校を作り、子どもたちを教え、グループによって貧困者の方々を経済的にも霊的にも支えておりました。彼は牧師という職業柄、当時英国で犯罪人を訪問していました。その犯罪人は重大な罪を犯し、処刑される人々も含まれていたそうです。その当時の英国の聖職者の方々の間での考え方では処刑される人々が悔い改めることはないというのが通例でした。もちろん、ジョン・ウェスレーも当時はそういう考えだったということです。しかし、ある日彼はある犯罪人の処刑される前の悔い改めに立ち会うのです。
彼は多くの犯罪人が処刑される場面に立ち会ってきたはずです。そして多くの犯罪人が悪態をついて処刑されるところを見てきたことでしょう。ですが、彼は処刑される寸前の犯罪人の悔い改めを見たのです。
主イエスと一緒に処刑され、信仰を告白した犯罪人、ジョン・ウェスレーの前で処刑される前に悔い改めをした犯罪人と主イエスと一緒に処刑され、主イエスに悪態をついた犯罪人や主イエスを侮辱し続けた人々との間には何の違いがあったのでしょう?
私達は果たして悔い改め、主イエスの前にへりくだり、主イエスを主と認め受け入れた犯罪人の様な信仰を持っているでしょうか?それとも主イエスをののしり続けた人々のようではないでしょうか?私達はどちらを選ぶのでしょうか?私達の信仰が問われています。
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