「五千人への食べ物」
2024年2月11日 公現後第6主日
説教題:「五千人への食べ物」
聖書 : ヨハネによる福音書 6章1節-15節(174㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達が生活をしていくために必要な物は何かといいますと何でしょうか?主であり、その主への信仰であることは確かです。ですが衣食住(着るもの、食べるもの、住むところ)が私達に必要であるということもまた事実です。
それらを確保するためにお金が必要であることも事実なのですが。さて、衣食住はすべて大切なのですが中でも食べ物、食べることが一番重要ではないかと私は考えています。仕事を辞めてしまう、もしくは辞めさせられた時、よく言う、もしくはよく聞くセリフは「私はこれからどうやって食べていけばいいのだろう。」というものです。
「着る服をどうしたら良いのだろう。」ということではないのです。もっとも「どこに住んだら良いだろう。家賃も払えないし。」ぐらいは言うかもしれませんが。
やはり食べること、食べ物が私達の生活で最も重要だということです。
さて本日の聖書箇所です。「その後」という言葉が気になりますね。何のその後なのでしょうか?前章に書かれているのですが主イエスとユダヤ人たちとの間で論争が起こったのです。何が原因かというと主イエスが安息日に病人を癒やしたことに対してユダヤ人たちが攻撃したからです。これまでの説教で何度か話しているのですが、安息日には仕事をしてはいけないというのがユダヤの律法で決まっています。今日でもそれは守られています。
主イエスが安息日に病人を癒やし、彼が床を担いで歩いたことがこの律法に違反しているとして彼らは主イエスを攻撃したのです。それに対して主イエスはご自分の権威を証し、反論したのです。そういう事があった後にという事です。そしてエルサレムから戻り、ガリラヤ湖、ティベリアス湖の向こう岸に渡られたのです。主イエスはユダヤ人たちとの論争や群衆の求めにお疲れになられ故郷のガリラヤ地方に行かれたのかもしれません。また異邦人が多く住んでいるので彼らもそこへ来たがらないと思っていたのかもしれません。異邦人はユダヤ人にとって付き合いたくない人々であったからです。
ですが大勢の群衆が主イエスと弟子達を追いかけてきたと2節にあります。なぜかと言いますと、主イエスが病人たちを奇跡によってお癒やしになったのを彼らが見たからです。
主イエスは山に登られ、弟子達と一緒にそこに座られたと3節にあります。山というものは聖書では意味があります。モーセは十戒を主からいただくためにシナイ山に登りました。エリヤはイザベルから逃れるためにホレブ山に向かい、主と出会い慰めを得ました。主イエスご自身も限られた弟子達と一緒に山にお登りになり、モーセとエリヤと出会われ、お語らいになりました。そしてあの有名な山上の説教も山の上で主イエスが座り、お始めになられました。ですから主イエスが弟子達と一緒に山に登られ、そこにお座りになられたということは重要なことなのです。なにかが起こるということです。
主イエスはご自分の方に群衆が来られているのを見てパンを与えようと思われたのでしょう。主イエスがそのようにお思いになられるほど彼らは悲惨な状態だったということでしょう。ですがあえて主はすぐにパンを与えずフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われるのです。(5節)
フィリポは主イエスの問いに「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えたのです。(7節)
その当時一デナリオンは人が一日働いて稼げるお金だったということでした。当然フィリポはこれだけの群衆のためのパンを買うお金など持っていませんということを言いたかったのでしょう。
ここでペトロの兄弟のアンデレが登場します。そしてこう言うのです。大麦のパン五つと魚二匹を持った少年がいますが、これだけでは群衆を養うには足りないでしょう。
つまり主イエスの弟子達のフィリポとアンデレ両人ともこの群衆を養うなんて無理ですと言っているのです。フィリポはお金がありませんと言い、アンデレは食べ物はありますが足りませんと言っています。
少し戻るのですが、6節です。主イエスがフィリポに問いかけた理由はフィリポを試すためであり、御自分では何をしようとしているかを知っていらしたということです。
何をしようとしているかというのはこの後書かれているようにパン五つと魚二匹で五千人を養うという奇跡です。
ではフィリポの何を試すというのでしょうか?それは目に見えない神の力、目に見えないことを信じる力、信仰です。
フィリポはこの群衆を養うためのパンを買うためには二百デナリオンでも足りないし、そんなお金を持っていないから無理であるという判断をしました。現実的な判断です。
ですがそれは目に見えるものを信じることです。ですから主イエスのこの試験にフィリポは失敗しました。
また思わぬところでアンデレもこの試験に参加しました。しかしアンデレもまた現実を見ていました。つまり彼も失格です。彼らはこの前に主イエスと共に行動し、主イエスの御業、奇跡を見てきました。ですが彼らは現実を見て判断してしまいました。イスラエルの民も同じことです。何度も主の奇跡によって救われたにも関わらず、現実を見て嘆き悲しみ、主に逆らってきました。
主イエスは少年が持っている大麦パン五つと魚二匹を感謝の祈りを捧げた後、約五千人の人々に配りました。
人々は満足し、パン屑が余るほどでした。余ったパン屑は十二の籠に一杯になったということでした。
出エジプトで人々が食べ物がないと言った時がありました。肉が食べたいと言った時がありました。確かに食べ物が大切だということはわかっています。ですから主はマナを降らせ、うずらを降らせました。主イエス・キリストもまた食べ物を与えました。主は私達に食べ物が必要だということをおわかりになられています。しかし同時に御教えや目に見えない神を信じる信仰が大切であるということも言っているのではないでしょうか?ここでは主イエスは実際の食物をお与えになられました。しかし、主はそれだけでなく、目に見えない霊的なものをお与えになられます。信仰をお与えになられ、それを強めてくれます。
以前お話しましたが、主イエスはご自身を天から降ってきた生きたパンであると言われました。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(ヨハネによる福音書6章51節)
私達も、実際のパンも霊的なパンも与える主イエスを信じて歩んでいこうではありませんか。
Comments