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「人の悪意」

2021年2月28日 受難節第2主日礼拝

説教題:「人の悪意」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書12章22-32節(22㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスがこの地上におられた時、人々に神の道を説き、彼らを悔い改めに導き、病人や悪霊に憑かれた人々を癒やされました。主イエスの地上での生活は伝道の人生であり、その伝道は主イエスの教えとその教えを証しする奇跡(業)でした。主イエスが行なった病人や悪霊に憑かれた人々を癒す奇跡は主イエスの教えが神から来ており、主イエスがメシア、神から油注がれた者であると人々に分からせるものでありました。事実、多くの人々は主イエスをそのように受け入れました。しかし、ある人々は主イエスをそのように受け入れず、拒否しました。本日の聖書箇所はその事を示しています。


 悪霊に憑かれ、目も見えない、口も聞けない人が主イエスによって癒やされました。これは主イエスが行なった奇跡です。主イエスは悪霊を追い出し、人を癒やす権威を持っていたからです。23節で人々は驚いて、こう言いました。「この人はダビデの子ではないだろうか。」「ダビデの子」とはメシア(救い主)を指します。なぜなら、ユダヤ人の間ではメシアとはかつて存在した偉大なダビデ王の子孫であるということが言われていたからです。このマタイによる福音書1章1節から17節には主イエス・キリストの系図が書かれているのですが、これを見ると、主イエス・キリストはダビデ王の子孫であるので、ダビデの子という事になり、メシアであると言えます。ですが、人々が主イエス・キリストをメシアではないかと考えたのは悪霊を追い出し、目が見えず、口も聞けない人を癒やすという奇跡を見たからです。そして、その奇跡を神から来たものと思ったからです。


 しかし、そう思わなかった人々もいました。それがファリサイ派の人々でした。24節で彼らはこう言いました。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」主イエスは悪霊の頭ベルゼブルであるから、悪霊はその頭の言うことを聞いて取り憑いていた人から出ていったのだとファリサイ派の人々は言ったのです。ファリサイ派の人々も他の人々と同様に、この主イエス・キリストが行なわれた奇跡を見たのです。ですが、ファリサイ派の人々はこの奇跡を神の霊によるものではなく、悪霊しかも悪霊の頭の霊、ベルゼブルによるものだとしました。なぜ、彼らはそのような事を言ったのでしょうか?


 それは彼らが主イエスに対して悪意を抱いていたからです。ファリサイ派の人々は主イエスと対立してきました。特に安息日に関して対立しました。安息日にユダヤ人が労働をすることは禁じられています。そして、ファリサイ派の人々はその安息日を守ることを含めた律法を厳格に守る人々でした。しかし、主イエスと弟子たちは守らなかったからです。同じ12章にはその対立を示す2つの話があります。まず、最初の話は1節から8節に書かれています。安息日にしてはならないとされる麦の穂をつまんで食べるということを主イエスの弟子たちが行ない、それをファリサイ派の人々が咎めるのですが、主イエスが彼らを論破する場面です。次の話は9節から14節に書かれています。主イエスが安息日に会堂で片手の萎えた人を癒やすのですが、人々は訴えようとして「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と主イエスに尋ねます。その質問に対して、主イエスは「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」と言い、その片手の萎えた人を癒やされました。これらのことは主イエスとファリサイ派の人々の対立を激しくしていきます。事実、14節にはこう書かれています。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」


 ファリサイ派の人々も目の前で行われた人の常識を超えた奇跡を否定することは出来ませんでした。しかし、安息日を守らない、自分たちに敵対する主イエスを神から来たメシアと認めることも出来ません。ですから、主イエスを悪霊の頭ベルゼブルとし、その力によって悪霊を追い出したのだとこの人々は言ったのです。ここにファリサイ派の人々の悪意があるのです。ファリサイ派の人々は律法を厳格に守ることで知られていました。そして、安息日に人々は労働を禁じられていましたが、何が労働で何が労働でないかを決めるのはファリサイ派の人々や律法学者でした。その律法はものすごく細かく規定されていました。安息日を尊重することは大事なことですが、何が労働で何が労働でないかを細かく規定するということはこの規定した人々が主になってしまっているのではないでしょうか?彼らは口では神を崇めていると言っておきながら、自分が主になってしまっていた。だから彼らの権威の象徴である 安息日の律法を破る主イエスと彼らの弟子たちの行為が許せなかったのではないでしょうか?自分たちの権威に、そして自分たちに泥を塗る行為だからです。だからこそ、彼らは主イエスを殺そうと企んだのです。だからこそ、主イエスがたとえ奇跡を行なっても、それを神からと認めず、悪魔からと結論づけました。まさに、悪意の連鎖です。


 私達にもこのような思いはないでしょうか?特に金銭、権威、社会的地位を持っている方々に多いかもしれません。これらを持っているせいで、これらにより頼んでしまう。そして、神を否定するという罪を犯してしまう。事実ファリサイ派の人々は自分たちの権威により頼み、自分たちこそは神の道を歩んでいると錯覚し、悪意に満ち、神と主イエスに敵対しました。


 主イエスはファリサイ派の言ったことをこのように否定します。25節から26節です。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」内輪でもめるということは大変なことです。それでは外の敵と戦うことは出来ません。それはサタンの国であっても同様だと言っているのです。ですから、主イエスが悪霊の頭によって悪霊を追い出すことはあり得ないと否定するのです。さらに、28節で主イエスは「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言いました。つまり、ファリサイ派の人々のように、主イエスの業を悪霊によるものであるとせず、素直に主イエスを受け入れる。そうすることで私達のところに神の国が来る、すなわち私達は救われるのだと主イエスは言っています。


 赦される罪と赦されない罪があると主イエスは言っています。31節と32節で人が犯す罪や冒涜、人の子に言い逆らう罪は赦されるが、霊に対する冒涜、聖霊に言い逆らう者は赦されないと主イエスは言われました。私達はキリスト者になってからも罪を犯してしまいますが、悔い改めることによって赦されます。しかし、聖霊に対する冒涜や罪は赦されないと主イエスは言っているのです。ファリサイ派の人々の悪意の連鎖から彼らが発した言葉は正にそれでした。主イエスが神の霊、聖霊によって悪霊を追い出しているにもかかわらず、彼らのプライド、奢り、高ぶりによって生じた悪意によって聖霊を悪霊としたのですから。


 私達もこの事を注意しないといけません。この赦されない罪の原因は人の悪意です。その大本は悪に向かう人の心です。ファリサイ派の例を見てください。自分たちの権威、プライド、奢りです。自分たちの権威が傷つけられたと思い、主イエスに敵対し、主イエスを何とかして言葉尻を捕らえ、貶めようとした心です。何とかして主イエスを殺そうとした心です。それがこの赦されない罪をファリサイ派の人々に犯させたのです。主イエスご自身が言っています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」マタイによる福音書15章18節から20節です。私達にこの罪を犯させる大本の心の動きを気づかせてくれるのもまた聖霊の働きです。そして、神に立ち返らせてくれるのもまた聖霊の働きなのです。ですので、私達の心が悪意に満たされないよう、父、子、聖霊の神に祈ろうではありませんか。

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