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「人を生かす神の愛」

2024年6月16日 聖霊降臨節第5主日 父の日 

説教題:「人を生かす神の愛」

聖書 : ルカによる福音書 15章11節-24節(139㌻)​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 先週は子どもの日、花の日礼拝ということでしたが、本日は父の日礼拝です。父の日は子どもの日、花の日と同様にアメリカ発祥ということです。ソノラ・スマート・ドットという女性がおりました。彼女の父親は南北戦争の軍人であったのですが、戦争後彼女を含めて6人の子供たちを男手一つで育てたということです。彼女がある日教会で説教を聞いていたのですが、母を称える母の日があるのに、父を称える父の日がないのはおかしいと思い、1909年に牧師協会に父を称える日を作って欲しいと願い出ます。そして1910年6月19日に初めて父の日の式典が行われたということです。ちなみに6月に行われたのは彼女の父の誕生日が6月だったからだそうです。しかしこの父の日が一般に普及するのはそれから6年たった1966年からだそうです。1916年に第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが父の日に関連する演説を行ってからということです。                     

 さらに1966年第36代大統領リンドン・ジョンソンが6月の第3日曜日を「父の日」と定め、1972年、国の記念日として正式に制定されました。

 さて本日の聖書箇所ですが、皆さんもよくご存知の放蕩息子の話です。ある人に息子が二人いて弟の方が将来もらうことになっている財産を今くださいと言います。そして父親はそれに応じます。これはユダヤ社会では異常なことなのです。家の中で権威を持っているのは父親、その次に長男、そして次男と続いていきます。まだ父親が亡くなってもいないのに財産の取り分を渡せと次男が言っているのです。これは父親、さらに言えば長男の権威を踏みにじっています。父親は一喝して叱ってもいい場面です。ですが、父親はあっさりとこの申し出に応じてしまいます。長男もこの次男に対して言いたいことが山程あったのでしょうが、父親が認めてしまっているので何も語ってはいません。

 やがてこの次男の申し出の意図がわかってきます。13節です。「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」

 つまり彼は自由が欲しかったということです。自由というと何か正しいことのように聞こえますね。奴隷制度というものがありましたが、そこから解放されることは自由であり、正しいことです。言論の自由、宗教の自由、職業選択の自由なんていうのもあります。いずれも現代の民主主義の社会では当然の権利として認められており、正しいことです。さらに言うならば、自立という考え方もあります。つまり、子どもがやがて大人になり、家を出ていき、自分で生活するということ、つまり自立する事は正しいことであり、そういう意味ではこの次男の生まれ育った家を離れ、自分で生活することは正しいことであるという解釈も出来るのです。ですが果たしてそうでしょうか?

 結局この次男が望んでいた自由とは神なしで自分勝手に生きたいということなのです。もちろん、言論の自由、宗教の自由、職業選択の自由、そして自立ということは大切なものです。ですがそれらを装いつつ神なしで自分勝手に生きたいというところに問題があるのです。マタイによる福音書11章28節から30節にこのように書かれています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 つまりこの次男の自由に生きたいという人生は疲れる人生、重荷を負う人生なのです。もちろん、神の御教に従って生きたとしても疲れること、重荷を負うことはあるでしょうが自分一人もしくは人に頼るだけの人生ではなくなるでしょう。神が共にいてくれるのです。ですがそれがいやだ、神の軛を負いたくない、自分自身で何でも決めたい、自分の人生の主導権を手放したくないというのが人間の罪なのだと思うのです。

 元の聖書箇所に戻りますと、14節です。彼は財産を使い果たし、さらに彼が住んでいた地域を飢饉が襲いました。彼に取ってみれば危機的状況です。そしてある人が彼に豚の世話をさせるという仕事を与えたのですが、彼自身は食べ物を与えられなかったということです。聖書には書かれていませんが、彼がまだ財産を持っていた時にはこの地方の人々は彼をよく取り扱っていました。ですが、彼のお金がなくなった途端、そして飢饉がその地方を襲い、自分達に余裕がなくなった途端、彼らは手のひらを返したのです。

 イザヤ書2章22節にはこのように書かれています。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」まさにその通りです。以前にもお話をしましたが、あるお金を持って投資をされている女性がいました。その女性が銀行に行き、取引を終え、帰る時には支店長や部下たちがお見送りをし、頭を下げたということです。ですが、彼女は娘にこのように言ったそうです。「あの人達は私にお辞儀しているんじゃないよ。お金にお辞儀しているんだよ。もしお金がなくなったらどうなることか。おぼえておいて」と言いました。ちょっと人間不信に陥ってしまうような話で申し訳ありませんが。


 元の聖書箇所に戻ります。ルカによる福音書15章17節で「我に返って」とあります。ここが彼の悔い改めの始まりであります。その後に続く彼の言葉「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」だけを見てみれば、自分の利己的な考えだけなのかと思ってしまうのですが、18節から19節の彼の心の言葉「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」は彼の真摯な悔い改めの言葉、へりくだりの言葉であったであろうと思われます。そして彼は家に帰るのです。つまり言葉だけでなく、行動するのです。

 彼が返ってきたとき、父親は彼を受け入れなかったでしょうか?彼がまだ遠くにいたときから彼を見つけて彼の首を抱きました。そして彼は先程の悔い改めの言葉を父に言いました。その後父親は彼に新しい服を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせました。そして彼のために宴会を開きました。

 一般的に見れば、そんな放蕩の限りを尽くし、家を出ていった子どもなんか受け入れる事ないんじゃないか、もう少し厳しく対応すべきであったのではないかという意見もあるかと思います。事実本日の聖書箇所ではないのですが、この父親の次男に対する対応に長男は怒り、その宴会に加わらなかったということが25節から30節に書かれています。ですがこの悔い改めた息子を赦すのが神の愛であると思うのです。

 これは人の反抗と悔い改めと赦しの物語です。最初にこの弟は父親に財産をくれるよう言いました。自分勝手に生きるためです。

 ここで父親は叱りつけて父親の言う事を聞かすことも出来ました。しかしそれをしなかった。神は私達をロボットのように神の言う事を聞かすことはしません。ですからこの弟の申し出を受け入れたのです。ですが、勘違いしてはいけないのは、この弟の申し出が神の御心にあっていると思ってはいけないのです。ああ許してくれたんだ。だから自由にやっていいんだというわけではないのです。この弟の思いと行動は神の御心にかなっていない、間違っているということなのです。

 そしてこの弟はやがて自分の思いと行動の責任をとることとなります。それが財産を失い、食べるにも困るということです。そして彼は実家に戻ってきたということです。

 たぶん皆さんは放蕩の限りを尽くして食えなくなったから実家に戻ってきただけじゃないか情けない奴と思っているかもしれません。ですが実はそう単純な話ではありません。彼が我に帰り、家に戻ってきたこと、いやその前に家を出る前から神の御計画があったのです。彼は実家に帰ることで生きることができました。それは単純に飢えて死ぬのを免れるという意味で生きることが出来たということではありません。それは神なき生活から神ある生活に変えられたということです。神なき生活は死んでいるのと同じです。果たして私達は自分を頼りに、財産を頼りに、他人を頼りに生活するという神なき生活、死んでいるでしょうか?それとも神を頼りに神ありの生活を生きているでしょうか?

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