「人間をとる漁師」
- urawa-church
- 2021年2月1日
- 読了時間: 6分
2021年1月24日 降誕節第5主日礼拝
説教題:「人間をとる漁師」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 5章1-11節(109-110㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
人は人生の様々な状況で主イエス・キリストと出会い、キリスト者になります。少し前の事なのですが、本教会の教会員のあかし集を読ませて頂き、改めてその事を実感しました。そして、どなたのあかしも素晴らしく、主イエスに出会った状況に違いこそあれ、皆さんが主イエスと出会い、キリスト者になったのだという事を感じさせるものでした。本日は後に使徒と呼ばれるペトロ、ケファと呼ばれるシモンが主イエスの弟子となった話です。
ルカによる福音書5章1節にはこう書かれています。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」ゲネサレト湖とはガリラヤ湖の別名ですので、主イエスがガリラヤ湖畔に立っていた事になります。そして、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」という表現からもおわかりかと思いますが、もうその時すでに、主イエスの名声はかなり高かったという事になります。そんな状況の中で、主イエスは漁師シモンの持ち船に乗り込んで、岸から少し漕ぎ出すように彼に頼み、船から群衆に教え始められたと3節に書かれています。4節には主イエスが船から群衆に教え終えた時、シモンにさらに沖に漕ぎ出して、網を降ろして、漁をするように言われたと書かれています。この3節から4節とこの前の2節の後半部分に神の視点と人間の視点の違いを感じます。2節の後半部分にはこう書かれています。「漁師たちは、船から上がって網を洗っていた。」つまり、漁師たちは漁を終えて、次の漁の準備をしていたという事です。もう、休憩です。しかし、主イエスはそんな休憩している漁師シモンに声をかけ、3節で「岸から少し漕ぎ出すように」、4節で「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。いわば、プロの漁師であるシモンが現実を見て、休憩しているのに、漁でいえば素人である主イエスがこれから、漁をしなさいというのです。当然、そのように主イエスに言われたシモンが反発をするのは当然なのですが、シモンの反応は反発と了解の入り混じったものでした。それは5節に書かれています。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」このシモンの主イエスに対しての言葉の前半部分は目の前の現実を見ての反応です。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」は正に過酷な現実に打ちひしがれている状態です。これは私達の姿であるとも言えます。私達も目の前の過酷な現実に直面し、打ちひしがれて、目の前が真っ暗になり、立ち往生してしまうことがあります。しかし、シモンの発言の後半部分に注目してください。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」ここにシモンの信仰の表れが垣間見えます。もちろん、これは確信を持った信仰ではありません。シモンは絶対に魚がとれるという思いをもって、網を降ろしたわけではないのです。しかし、彼は主イエスの御言葉に従い、行動したのです。拒否することも出来たにもかかわらず、シモンは主イエスの御言葉に従いました。
彼が主イエスの御言葉に従い、網を降ろした結果、彼は多くの魚をとることが出来ました。あまりの多くの魚が網にかかり、シモンの船だけでは取り上げることが出来ず、彼の仲間のもう一そうの船に合図をして、助けてもらうほどだったということです。そして、その2そうの船でさえとった魚を船にのせたので沈みそうになったということが6節から7節に書かれています。
夜通し漁をしても、魚一匹とれず、次の漁の準備のため網を洗い、準備をしている漁師シモン。彼は目の前の過酷な現実に打ちひしがれていたのですが、主イエスが沖へ行こう、漁をしようと誘い、その結果として、大量の魚をとることが出来たのです。正にこれは主イエスの奇跡であり、恵みだと思います。主イエスがシモンを暗闇から光へと引き出してくださったのです。この奇跡を見たシモンは主イエスの前にひれ伏しこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」なぜ、シモンは主イエスに対してこのように言ったのでしょうか?まず、主イエスに対しての敬称が変わっていることに注目してください。5節ではシモンは主イエスの事を「先生」と呼んでいました。しかし、この8節でシモンは主イエスのことを「主」と呼んでいます。「先生」は相手を敬う時に使われる言葉です。例えば、学校の先生、医者、弁護士、議員、そして牧師も先生と呼ばれます。しかし、ここで使われている「主」とは神と同等の意味を持ちます。元の言葉で言えば、キュリエ(キリエ)、英語で言えばロード(Lord)となります。すなわち、シモンは目の前にいる主イエスが神であり、神の臨在に立ち会っているということを自覚していたという事になります。古来、人が神の臨在に立ち会ったときに抱く感情は恐怖です。それは自分がいかに神の前に罪深い存在であるかということを自覚していたからだということです。そのせいで、自分が殺されるかも知れないという恐怖です。イザヤ書6章1節から7節に書かれているのですが、預言者イザヤが神の臨在に立ち会い、恐怖して発した言葉があります。5節の「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」またヨブが彼の親友たちの間で議論をしていた時、主がその議論に加わった時のヨブの主に対する対応はヨブ記40章4節から5節、42章1節から6節に書かれています。
この預言者イザヤやヨブが神に対して抱いた恐怖をシモンも主イエスに対して抱いたのかも知れません。しかし、主イエスはこのシモンに言うのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカによる福音書5:10)主イエスはこの恐怖におののいているシモンにこれからは人間をとる漁師、すなわち、人を救いに導くのだと主イエスは言われたのです。主イエスの弟子になるのだというのです。シモンは漁師でした。彼は金銭が豊かであったわけでも、身分が高かったわけでも、知識があったわけでもありません。いわばその当時の社会で下層に属する人でありました。そんな人を主イエスは弟子としたのです。私たちは目の前の現実に打ちのめされ、恐怖に足がすくみ、動けなくなる事があります。もしくは、動けなくなるほどではなくとも、目の前の不快な現実がずっと続いていくということで受け入れてしまっているかもしれません。しかし、そういう時こそ、このシモンの召命の事を思い出して下さい。そして、自分がキリストと出会い、導かれたことを思い出して下さい。その事を思いつつ、歩んでいこうではありませんか。
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