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「人間をとる漁師」

2022年5月1日 復活節第3主日

説教題:「人間をとる漁師」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 5章4-10節(109㌻)

        ヨハネによる福音書 21章3-11節(211㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 皆さんはペトロがどのように主イエスの弟子になったかをご存知でしょうか?このペトロが主イエスの弟子になった物語は書かれている福音書によって多少異なっているのです。例えば、マタイによる福音書4章18節から22節にはこのように書かれています。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」

 ここでは、漁師であるペトロと彼の兄弟アンデレ、ヤコブと彼の兄弟ヨハネが生活する上で必要な商売道具である網や舟、そして彼ら(ヤコブとヨハネ)にとって大切な父親(ゼベダイ)を捨てて主イエスに従ったということは分かります。自分の仕事や親兄弟を捨てるというのは大切な決断です。しかし、何かこう淡白と申しますか、淡々と語られている気がするのです。そして、ペトロは主イエスに召された人たちの中心人物ではなく、あくまでも召された四人の中の一人と、このマタイによる福音書の箇所では描かれているのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉もペトロに対して発せられたというよりも、ペトロと彼の兄弟のアンデレ両方に発せられたように思われます。


 マルコによる福音書1章16節から20節にかけてもこの四人の漁師を弟子にする話が書かれています。マタイによる福音書に書かれている話とほぼ同じです。ペトロは中心人物ではなく、あくまで召された四人の中の一人です。主イエスは例の言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」をペトロと兄弟のアンデレの二人に仰られました。ヤコブと兄弟のヨハネも彼らの父ゼベダイと舟を残して主イエスに従ったということでマタイによる福音書に書かれている内容と同じです。少し違うのはヤコブとヨハネは彼らの父だけでなく、父の雇い人も一緒に残して主イエスに従ったというところでしょうか?とすると、この家はある程度裕福な家であったということが想像できます。


 ヨハネによる福音書で語られるペトロが主イエスの弟子になった話はマタイによる福音書、マルコによる福音書で語られている話と少し違っているのです。ヨハネによる福音書1章35節から42節に書かれています。まず、洗礼者ヨハネが彼の二人の弟子と一緒にいたところから話が始まります。洗礼者ヨハネが主イエスを「見よ、神の小羊だ」と言い、それを聞いた二人の弟子が主イエスに従ったということです。その従った二人の内の一人がペトロの兄弟のアンデレであったということです。そしてこのアンデレが彼の兄弟のペトロに会って「わたしたちはメシアに出会った」と言ったのです。そして、ペトロをイエスのところに連れていき、ペトロも主イエスの弟子となったのです。ここにはペトロとアンデレが漁師であったことなど書かれていません。アンデレが元々洗礼者ヨハネの弟子であったということもここで初めて知りました。ですので、先程、私はヨハネによる福音書に書かれているペトロの召命物語はマタイによる福音書、マルコによる福音書に書かれている召命物語と少し違うと言いましたが、だいぶ違うという印象です。

 そして本日の聖書箇所であるルカによる福音書5章4節から10節に書かれているペトロの召命物語です。マタイ、マルコによる福音書に書かれている召命物語のように、ペトロが漁をし終わった後に主イエスに従ったことが分かります。しかし、マタイ、マルコに書かれているように淡白ではないのです。主イエスがペトロを招いた、ペトロは従ったという単純な物語ではないのです。     


 この福音書にはペトロがなぜ主イエスに従ったのかという理由が書かれています。そしてペトロは召命を受けた四人の中の一人ではないのです。ペトロが召命を受けた中心人物なのです。その日ペトロと彼の仲間たちは夜通し漁をしましたが、魚一匹とることができず、網を洗っていたのです。

 その時主イエスはペトロの持ち舟に乗り込み、岸から少し漕ぎ出すよう頼まれました。そして、そこで主イエスは群衆に教えられました。そして、群衆に教え終えられてから、主イエスはさらにペトロにこう言われたのです。「沖に出て漁をしなさい。」プロである漁師のペトロ達が一晩中かかって一匹もとれなかったのに、ズブの素人である主イエスが「沖に出て漁をしなさい」と言うのです。ペトロは当然不満を口にしますが、主イエスに従いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」


 果たして結果はどうだったでしょうか?魚が大量にとれたのです。そしてペトロは主イエスの足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」それに対して主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そして、彼と仲間のヤコブ、ヨハネもすべてを捨てて主イエスに従いました。まさに、これはペトロの罪の悔い改め、そして罪許され、主イエスに従うという話です。ペトロの回心と新生の話です。あまり個人的な好き嫌いを言ってはいけないと思うのですが、私はこのルカによる福音書に書かれているペトロの召命物語が好きです。なぜなら、このペトロがいかにして主イエスに従うようになったかということが詳細に書かれているからです。


 しかし、このように素晴らしい経験をしたペトロ、人間をとる漁師になったはずのペトロが今はどうでしょうか?ユダヤ人たちを恐れて震えているではありませんか?さらに彼は故郷に帰り、漁をしていました。本日の第2の聖書箇所です。どういうことでしょうか?彼とその仲間たちは主イエスを失いました。ですので、当然伝道は諦めなければなりません。そして彼らは生活をしていかなければなりませんので、ペトロは元々漁師でしたので、漁師に戻ったのでしょう。そして、彼の仲間たちも彼に従ったというわけです。仕方がないとは言え、残念な気がします。なぜなら、ペトロの「魚をとる」という古い生き方を主イエスによって「人間をとる」という新しい生き方に変えられたはずなのです。しかし、ペトロはまた古い生き方に戻ってしまったのです。彼の仲間たちとともに。

しかし、夜通し漁に出たものの、魚一匹とれませんでした。


 夜が明けた時、岸に主イエスがおられ、彼らにこのように言われたのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」彼らがそのようにすると、果たして、魚が大量に網にかかりました。


 この話はペトロが回心した時と同じではないでしょうか?ペトロが回心した時も夜通し漁をしたが、魚一匹とれず、主イエスが仰られたようにしたら、魚がとれ、ペトロは回心し、主イエスはペトロに「人間をとる漁師になる」と仰られ、ペトロは従った。今回もペトロとその仲間たちは夜通し漁をしたが、魚一匹とれず、主イエスに言われたようにしたら、大量に魚をとることができた。

主イエスは自分を見捨て、「魚をとる」という古い生き方に戻ってしまった弟子たちをもう一度「人間をとる」という新しい生き方に戻って欲しいと願っていたのではないでしょうか?そして、彼らを勇気づけたいと思っていたのではないでしょうか?彼らが網の中に大量の魚を捕らえて、岸についた時、食事の準備がされていて、主イエスは弟子たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と仰られたのです。そして、主イエスは弟子たちと食事を共にしたのです。このことがいかに弟子たちを勇気づけたことでしょうか?


 本日の聖書箇所ではないのですが、この食事の後、主イエスは ペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。内容は微妙に違っていますが、これは主イエスがペトロに対して牧会しなさいと言っているのではないでしょうか?つまり、「人間をとる漁師」も「わたしの羊の世話をする」ことも新しい生き方である伝道と牧会です。つまり、「魚をとる」という古い生き方に戻ってしまったペトロを勇気づけ、もう一度主イエスが教えた新しい生き方に立ち返ってほしいという主イエスのペトロに対する希望がここに現れているのです。主イエスはペトロのように失敗し、古い生き方に戻ってしまったような人にも憐れみをもって導いてくれます。私達もまたこの憐れみ深い主イエスに従って歩んでいこうではありませんか?

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