「何を刈り入れるか」
- urawa-church
- 2023年11月26日
- 読了時間: 8分
2023年11月19日 降誕前第6主日 収穫感謝日
説教題:「何を刈り入れるか」
聖書 : ルカによる福音書 12章13節-21節(131㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は収穫感謝礼拝ということですが、実際の収穫感謝日は今日から四日後の23日木曜日となります。私達の教会でいえば、次の祈祷会がある日ですね。ですが、主日礼拝の日曜日ではありません。ですから、この日より前の主日礼拝の日曜、つまり今日この礼拝をしているということです。もちろん、今日ではなく、26日の日曜日の主日礼拝にこの収穫感謝礼拝をしている教会もあります。いずれにしましても、この23日木曜日の収穫感謝日に近い主日礼拝を収穫感謝礼拝としているようです。また、先日ナザレンではないのですが、牧師の集まりがありましたが、ある牧師先生の教会では23日に教会員とノンクリスチャンの方々を招いて、チキンを始めとする食事会(本来は七面鳥なのですが七面鳥を手にいれることが難しいらしくチキンにしたそうです。)をするそうです。なんだか楽しそうですね。もちろん、私は今日このように講壇の前に皆さんが持ってきた果物が並べられている収穫感謝礼拝を楽しんでいます。
さて、私が収穫感謝と聞いて思い出すのがやはりアメリカでの体験なのです。私はアメリカの大学と神学校を卒業したのですが、そこでの収穫感謝の思い出というのは休みと食事なのですね。
つまり、収穫感謝のある1週間は休みになります。そしてアメリカ人の友人たちは実家に帰ります。そして七面鳥を始めとする食事を食べ、家族で過ごすという習慣があります。私もたまに友人の所に呼ばれたりして行ったことがあります。とても良い思い出です。
さて、この収穫感謝ですが、この由来についてお話したいと思います。以前もお話したとは思うのですが。
イギリスからアメリカのマサチューセッツ州にあるプリマスという地に移住した清教徒達(ピューリタン達)、ピルグリムファーザーズと呼ばれる人達が収穫を記念するお祭りをしたことがこの収穫感謝の由来と言われています。彼らは宗教上の自由を求めてイギリスからアメリカに渡りました。どういうことかと申しますと、当時イギリスではイギリス王ジェームズ一世を頂点とするイギリス国教会が支配的であって、その他のキリスト教の派閥を認めず、弾圧していました。それでピルグリムファーザーズも弾圧を逃れるために新大陸であるアメリカに渡ったということです。
しかし彼らがアメリカマサチューセッツ州プリマスに渡った1620年の冬は大変厳しく、渡った人達の半数が亡くなったということです。彼らは都会育ちで、荒野で生き抜くすべを知リませんでした。
当時のイギリスでは狩猟は貴族のものであり、一般の人が銃で獲物を撃つことは処罰の対象でした。彼らは農作物を持ち込み、育てようとしたのですが、彼らが到着した時期はそれらの農作物を育てるには遅すぎました。さらにそれらはこの新大陸の土壌に合いませんでした。こういうことも彼らがこの新天地で生きることを難しくさせ、彼らの半分が亡くなってしまう原因になりました。
1621年3月にアメリカインディアンのワンパノアグ族の首長マサソイトに率いられた一団がピルグリムファーザーズを訪れました。インディアンが彼らを訪れた理由は彼らと協定を結ぶためであったということです。どういう協定かというと、彼らがこのインディアンの土地に居住するかわりに、このインディアンたちを別の部族のインディアン達から守るということでした。さらに彼らはこのインディアンたちからこの土地で生きていく方法を学びました。この地で生育するトウモロコシの育て方やその他の農作物の育て方、魚の釣り方、貝の採り方、狩猟の仕方などです。
1621年の秋までに彼らはこれらの事を学び、多くの農作物の収穫を得ました。そして彼らは首長マソナイト率いるワンパノアグ族たちを招き、収穫祭をしました。その時、インディアンたちは農作物以外にも七面鳥や魚介類を持参し、共に祝ったということです。
これがいわゆる収穫感謝の始まりです。
ピルグリムファーザーズにとってこのインディアン達との出会いというのは九死に一生を得る経験だったと思います。もしこの出会いがなければ、彼らは全員死ぬしかなかったはずです。彼らは農作物を育てることも出来ず、狩猟をすることも出来ず、魚や貝を取ることも出来なかったわけですから。彼らはこのインディアン達に感謝すると同時にこの出会いを計画された神に感謝したはずです。この収穫感謝の話を考える時、私は出エジプトを思い出します。エジプトで奴隷であったイスラエル人たちを主が救い出し、約束のカナンの地に連れて行く話です。彼らは主の導きによってエジプトの地を脱出出来たのは良かったのですが、水、食料がありません。そしてモーセにそれらを訴えます。そして、モーセは主に訴え、主は水、マナ、肉などを与えるという場面ですね。
さて、本日の聖書箇所です。群衆の一人が主イエスに「遺産を分けてくれるよう兄弟に言って下さい。」と頼むんですね。
この男がどうしてそのようなことを主に頼んだのかは定かではありません。その前の箇所で主イエスは雄弁に説教をなさいました。おそらく、この男はこの主イエスの雄弁な語り口調に魅了され彼の兄弟を説得できるのではないかと思ったのかもしれません。
つまり彼は主イエスを単なる言葉巧みに人を魅了する弁士、雄弁家弁護士の類いだと考えたのでしょう。ですが主イエスは全く違うのです。主イエス自身がそう仰っています。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」とルカによる福音書12章14節に書かれています。
そして、さらにこの男の遺産を分けてもらおうという姿勢が批判されてしまいます。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と続く15節で主イエスが一同に言われました。
そしてある金持ちの喩えが始まるのです。この金持ちは畑を持っていたということです。多分広大な畑だったのでしょう。そして雇っている人々も多くいたに違いありません。
そして豊作で自分の蔵にその収穫物を収めきれませんでした。そして思いついたのが今ある蔵を壊してさらに大きい蔵を作り穀物や財産をしまいこみ、それで悠々自適に暮らしていこうということでした。それに対して神がこの金持ちに『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われました。
さて、この金持ちの考えの何がいけないんでしょうか?
この世的にみれば、この金持ちの姿勢はそれほど非難されることではありません。英語を使ってしまってもうしわけないのですが、FIREという言葉をご存じでしょうか?といっても火ではありません。Financial Independent, Retire Early (ファイナンシャル インデペンデンス リタイア アーリー)と言います。
資産運用で生活費をある程度確保できる仕組みを作ったところで、早期に仕事をリタイアすることです。最もそれが出来ず長く仕事をする方が多いとは思うのですが、目端がきく人、能力のある人が早期にお金を稼ぎ、仕事をリタイアし、あとは悠々自適に生活するというライフスタイルです。世間一般の人々は羨ましいとかやっかむことはあったとしてもそれを否定はせずにそれも一つのライフスタイルだとして受け入れるのではないでしょうか?
ですが、聖書では否定されています。どうしてでしょう?
21節を見て下さい。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
彼は自分のためだけに、自分を楽しませるためだけに富を積んだのです。自分のためだけに作物を刈り入れたのです。17節から19節にかけての彼の言葉がそのことを表しています。
彼は自分の欲望を刈り入れたのです。
アメリカのピルグリム・ファーザーズの収穫感謝祭を思い出してください。彼らはどん底を経験しました。ですが、インディアン達によって救われました。そして次の年教えてもらった知識で多くの収穫物を得ました。さて、彼らはその収穫物を自分たちだけを楽しませるためにため込んだでしょうか?それらの知識を教えてもらったインディアンたちを呼び、彼らに感謝し、彼らとその収穫物を分かち合いました。そして神に感謝したはずです。自分たちだけを楽しませることは主のみ心に反するということです。
律法で一番大切なことは何でしょうか?
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
そして二番目に大切なことは何でしょうか?
「隣人を自分のように愛しなさい。」
「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」と主イエスはマタイ22章37節から40節で仰いました。
本日の聖書箇所に出てくる金持ちがこの教えに従っているとは思いません。
そして何よりも富より大切な命の事をわきまえていません。
ですが私達の周りには先程紹介したようなFIREのような生き方が推奨されています。なぜでしょうか?命は大切だということ、お金よりも命のほうが大切だということも皆さんわかっていると思います。ですが、大病を患い余命いくばくかということがわかっている人は別ですが、たいていの人達はいつ死ぬかなんてわからないし、死ぬことなんて考えたくもないと思っているのかもしれません。だとするならば、そういった不確実なことよりも、現実的な生活、お金の事を気にしたほうが良いと考えているのではないでしょうか? この世の考えとキリスト者の考えが対立するわけです。
この世の人達がキリストを知らないからです。
私達は何を刈り入れて、何を蔵にため込んでいますか?
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