「何を土台とするか?」
2023年7月16日 聖霊降臨節第8主日 教会創立記念日
説教題:「何を土台とするか?」
聖書 : 新約聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 3章9節-13節(302㌻)
マタイによる福音書 16章16節-19節(32㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
建物を建てる時に大切なものとして土台があります。ここがしっかりしていないとその建物はぐらついてしまいますし、最悪崩壊してしまいます。私はご近所を散歩するのですが、最近、ある所に一戸建ての家が三戸建てられました。最初、それらの家が建てられ始めた頃、「こんなに狭い土地によく一戸建ての家を三戸も建てようなどと不動産会社、建築会社は考えたものだ。本当に建てられるだろうか?建てられたとして、売れるだろうか?」と思いました。ですが、実際に三戸の家は建てられ、売られています。まだ買い手はついていないようですが。その三戸の家が建てられ始めた時なのですが、職人の方々がコンクリートで土台を念入りに作っていたのを思い出します。
この時にも家の土台というものは本当に大切なのだなということを改めて思いました。
さて、この浦和教会の会堂も新しく建てられてから3年程経ちました。ですので、もう新築とはいえませんが、それでも比較的新しい会堂であるということには変わりありません。私自身はこの会堂の建築に携わったわけではありませんので、その分、ここに古くからおられて建築に携わった教会員の方々に比べると思い入れは少ないかもしれません。ですが、浦和教会は私が神学校を卒業して初めて派遣された教会です。しかも、この新しい会堂が建設された年に私はここに派遣されたのです。いわば、私はこの教会堂とともに牧師として伝道・牧会してきたと言っていいでしょう。そういう意味で私はこの教会堂に思い入れがあるのです。もちろん、この3年間、皆さんと一緒に過ごしてきた事も私にとって重要な事であります。
さて、この浦和での3年間の伝道・牧会生活というものはそれなりの期間でありますが、この浦和教会の長い歴史に比べるとまだまだ短いということがわかります。皆さんの週報棚にお入れした浦和教会の歴史の資料を見てみますとその事を感じさせます。これによりますと、浦和教会の初代牧師が1951年4月に浦和で伝道を開始いたしました。
ですが、創立記念日は1952年7月としました。初代牧師は1956年にご召天されるのですが、その方のご子息である2代目の牧師が1959年から2013年という長い間、この地で伝道をなさいました。その後、様々な牧師先生方がこの地で伝道をされて、2020年4月に私がこの浦和教会に遣わされるということになったわけです。ですから、浦和教会は今年で何十周年でしょうか?初代牧師が伝道を開始した1951年を始めとするならば、72周年? 創立記念日を始めとするならば71周年?というところでしょうか?何れにしても長い年月であったということは確かですね。私が浦和教会に遣わされてから、昔からの教会員の方からお聞きするのは初代牧師先生と先生の奥様そして2代目の牧師先生とその奥様、そして幼稚園の事です。初代牧師先生と奥様は当然として、2代目の牧師先生と奥様がこの長い浦和教会の歴史の中でも長い間、伝道と牧会をされてきて、幼稚園も長い間、開園してきたということも教会員の方々がお話される理由だと思います。いわば、この浦和教会の土台、基礎をお作りになられたのはこの2代目の牧師先生と奥様ではなかろうかと、私の勝手な推測ではありますが、思っているのです。もちろん、牧師先生と奥様だけでなく、教会員の働きがなければ教会活動が成り立たないことはわかっているのですが。
さて、本日の最初の聖書箇所です。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」
(Iコリントの信徒への手紙3章9節から10節)
この手紙は使徒パウロがコリントの教会の信徒へ送った手紙です。
パウロがこの手紙を送った理由の一つは以前説教でお話したかもしれませんが、コリントの教会で分裂があり、ある人はパウロにつくといい、またある人はケファ(ペトロ)につく、別の人はアポロに、そしてまた別の人はキリストにつくといった状態であったからです。その分裂状態を諫めるためにパウロは次のように言ったのです。「わたしたち(パウロ、アポロ、ケファ)は神のために力を合わせて働く者であり、あなたがた(コリントの信徒)は神の畑、神の建物なのです。」(Ⅰコリントの信徒への手紙3章9節)
つまり、パウロ、アポロ、ケファというのは互いに潰し合い、相争うような存在ではなく、神のために働く同労者であると言っているのです。
そしてあなたがた、コリントの信徒たちはその労働による結果、神への供え物なのです。ということです。これはとても尊い事であり、神の御心にかなうことです。ですが、それをコリントの信徒たちはめちゃくちゃにしていたのです。
そして続く10節でパウロは、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」と言っています。
パウロはまず、「神からいただいた恵みによって、」と言っています。
自分の力ではない、神からの恵みだと言っているのです。その後パウロは「土台を据えた。そして、他の人がその上に家を建てています。」と言っているのです。これを浦和教会に当てはめてみましょうか?
初代牧師先生とその奥様、そして2代目の先生とその奥様がこの浦和教会の土台を据えたと言っていいでしょう。そしてその後、他の先生方、私も含めてですが、家を建ててきました。ですが、どのように建てるか注意すべきであるということでしょう。
この家とは伝道、教え、説教、礼拝といったことでしょう。つまり、私も含めて先生方がどのような伝道、教え、説教、礼拝をこの浦和教会でしてきたかということに注意すべきであると言っているのです。
そして11節には「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」
これはとても重要です。世間では様々なもっともらしい理屈があります。私達もまたこのもっともらしい理屈に捕らわれてしまい、その理屈がキリストといつの間にかすり替わっている可能性があります。
また、キリスト教に様々な理論があります。神学というものです。ですが、注意すべきなのはその理論そのものがキリストになってしまう、すり替わってしまうということなのです。もちろん、神学はとても大切なものです。ですが、理論が主イエスそのものにとってかわっていいのでしょうか?
だからこそ、何を土台とするかが大切なのです。さらに言うならば、その土台の上の建物も重要なのです。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」(12節から13節)
かの日、つまりキリスト再臨の時にはキリストを土台とした家つまり私達の信仰、私達自身を私達は主イエスに見せなければなりません。そして主イエスはそれを火によって吟味されます。本日の聖書箇所ではないのですが、14節ではその仕事ぶりがよければ受け入れられますが、15節ではその仕事ぶりが悪ければ、私達の信仰とか私達自身が燃え尽きます。もちろん、救われはするのですが。
私達の土台は主イエス・キリストでしょうか?それとも何か別のものにすり替わってはいないでしょうか?喩え私達の信仰の土台が主イエスであっても、主の御心にかなった信仰の成長ができているでしょうか?本日の第2の聖書箇所(マタイによる福音書16章16節)でペトロは主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です。」と宣言しました。それに対して主イエスは「この岩の上に教会を建てる」と宣言されました。ペトロが主イエスがメシアであると宣言することが出来たのはペトロがこの時、父なる神によって導かれていたからです。私達はこの時のペトロの様に、父なる神によって、聖霊によって主イエスこそメシア、生ける神の子であると確信し、宣言することが出来るでしょうか?
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