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「信じる者になる」

2022年4月24日 復活節第2主日

説教題:「信じる者になる」

聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 20章24-29節(210㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスがご復活されて、マグダラのマリアやその他の婦人たちにご自身を現されたという事はこの前、お話いたしました。そして、彼女たちが、主イエスの弟子たちにその事を話したにも関わらず、彼らが信じなかったということもお話いたしました。やはり、人間というものは実際に見てみないと信じないのだなという事がこれで分かってしまいます。「百聞は一見にしかず」という諺(ことわざ)もあるくらいですから。なぜ、この主イエスのご復活というグッドニュースを信じることが出来なかったのでしょうか?一つには主イエスが生前に何度も語られてきたこの「主イエスのご復活」を忘れてしまったからなのでしょう。では、なぜ彼らはこの重要なことを忘れてしまったのでしょうか?それは絶望、悲しみ、そして恐れに飲み込まれてしまったからに他なりません。

 彼らは主イエスに弟子として選ばれ、主イエスと共にこの地上で伝道をいたしました。主イエスが話される御言葉と行なわれる御業を目の当たりにしてきたのです。彼らにとって主イエスと過ごした時間はまさにシャローム(ヘブライ語で平和という意味)であったことは間違い無いのです。しかし、主イエスはあっけなく、彼らの敵であるファリサイ派の人々、律法学者によって捕らえられ、屈辱を与えられ、十字架の上で殺されたのです。そして、弟子達はペトロを始めとして、散り散りに逃げ出してしまったのです。師である主イエスを残して。なぜなら、彼らもまた捕らえられ、殺される危険があったからです。ペトロが主イエスの前で三度主イエスを知らないと答えた事を思い出してください。


 彼らは主イエスを見捨てたという罪悪感に捕らわれたことでしょう。もしかすると、そんな罪悪感よりも自分たちも主イエスの様に捕らえられ殺されるという恐怖に捕らわれていたのでしょう。「もう主イエスと一緒に伝道をしたあの頃の事は忘れよう、あれは一時の夢のような物だったのだ。」、「これからは元々自分たちがしていた仕事をしようじゃないか。」と彼らは考えていたのでしょう。さらに、言うならば「死者の復活などばかばかしい」という常識的判断に彼らは捕らわれていたかもしれません。罪悪感、恐怖、諦め、常識に捕らわれていた弟子たちに「主イエスの復活というゴスペル(よき知らせ)」は受け入れることは出来なかったのです。

 主イエスはそんな弟子たちの前に現れました。主イエスを見捨て、罪悪感、恐怖、諦め、常識に捕らわれた情けない弟子たちの前に現れました。かつて主イエスが彼らに「復活する」と告げられたように現れたのです。そこには喜びが満ちあふれたのです。


 本日の聖書箇所の前、ヨハネによる福音書20章19節から20節に、こう書かれています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

 

 まず、初めに気づくことは何でしょうか?弟子たちの恐怖であり、弟子たちの情けなさではないでしょうか?彼らはユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけていたのです。そして、そんな彼らにはシャローム(平和)はなかったのです。そんな状態の彼らの真ん中に主イエスは立たれたのです。「真ん中に立たれる」ということは主イエスがこの弟子たちの輪の中の中心であることを示されたのです。教会もそうです。主イエスが教会の中心なのです。そして、恐怖に打ち震えていた情けない、シャローム(平和)のない状態の彼らに主イエスは何と呼びかけられましたか?「あなたがたに平和があるように」です。まさに、主イエスは平和のない所に平和をもたらされる方なのです。主イエスはかつて山上の説教をなさいました。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5章9節)

まさに、主イエスは神の子であって、弟子たちの心に平和をもたらしたのです。そして、弟子たちは喜びに包まれたのです。おそらく、主イエスが亡くなられて以来、初めての喜びだったのではないでしょうか?さらに言えば、主イエスは主イエスを見捨て逃げ去った弟子たちの前に現れた憐れみ深いお方でもあったのです。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタイによる福音書5章7節)

 

 しかし、この輪の中にいなかった人物がいたのです。それがディディモと呼ばれるトマスでした。ちなみに「ディディモ」とはアラム語で「双子」という意味です。彼は仲間の弟子たちが「主イエスを見た」という事を信じず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と語った人物です。この発言だけでこの人物は相当疑り深い事が分かります。

しかし、八日後、主イエスはこのトマスがいる時に弟子たちの前に現れました。またもや、家の戸には鍵をかけてあったのですが、主イエスが現れ、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と仰られました。そして、この疑り深いトマスにこう仰られたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」

(ヨハネによる福音書20章27節)

なんという皮肉なのでしょう。当然主イエスは神の御子ですので、トマスが言った彼の疑り深い言葉を聞いての主イエスのお言葉なのです。トマスはそれに対して主イエスが仰られたようにせず、「わたしの主、わたしの神よ」と言い、主イエスを認めたのです。主イエスはトマスに仰られました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書 20章29節)


 私達はある程度、疑り深くなければいけないと思うのです。今の世の中には詐欺もありますし、マスコミのニュースなども聞いた話によると、都合のよいコメントやシーンをつなぎ合わせ、世論を先導するもしくはミスリードしているとのことです。いわゆるフェイクニュースなどもあります。私達が私達の身を守るためには疑らなければならないのです。しかし、事、信仰に関して言えば信じなければならないのです。しかも見ないで、信じなければならないのです。キリスト者でない人に言わせれば、死者の復活を実際に見ないで信じるなんて馬鹿なことかもしれません。たぶん、「どこに証拠があるのだ。見せてみろ。」と言われるかもしれません。ですが、私達はこの事を信じる信仰によって立っているのです。主イエスの弟子たち、婦人たちは結局復活された主イエスを見て信じました。ファリサイ派、律法学者たちは御業(奇跡)を見ても、主イエスを受け入れず、十字架に掛けて殺しました。しかし、私達は復活された主イエスを実際に見ないで信じているのです。ここに私達の信仰があるのです。そして、その信仰を私達にもたらしてくださっているのは主の溢れんばかりの恵みであり、聖霊様なのです。そのことを覚えつつ日々歩んでいこうではありませんか。

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