「信仰が試される時」
2021年2月14日 降誕節第8主日礼拝
説教題:「信仰が試される時」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 8章22-25節(119㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスと弟子たちはガリラヤ湖のカファルナウムを中心に伝道をしていたということは以前お話いたしました。覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。本日の聖書箇所は主イエスと彼の弟子たちがカファルナウムを離れ、ガリラヤ湖を船で渡り、向こう岸に行くところから始まります。その向こう岸とは後にでてくるのですが、同じくルカによる福音書8章26節に出てくるゲラサ人の地方です。この船出は22節に出てくる主イエスの言葉「湖の向こう岸に渡ろう」という言葉によって始まりました。
しかし、事態は急変します。主イエスと弟子たちが湖を渡っている時に気候が荒れ始めます。23節には「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」とあります。「危なくなった」とは彼らが死ぬかもしれない状態であったということです。事実、次の24節では弟子たちが命の危険を感じ、この嵐の中で寝ている主イエスを起こし、こう言っています。「先生、先生、おぼれそうです。」対象的なのは主イエスの状態とその時の天気と彼の弟子たちの状態なのです。
主イエスはこの嵐の中寝ているのですが、外は大荒れ、彼の弟子たちはパニックを起こしています。当然といえば当然です。自分たちが死ぬかもしれないからです。私は船に乗ったことはあるのですが、嵐にあったりしたことはないので、この様な状態は想像するしかありません。しかし、それでも大変な状況であるということはわかります。ですので、主イエスの弟子たちが慌てふためくのは当然ですし、皆さんもそう思われるかもしれません。むしろ、主イエスが寝ておられる方が一般人の感覚からすると異常かもしれません。
主イエスは彼の弟子たちに起こされ、風と波を静めます。そして、続く25節で主イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」これはいささかきつい言葉だと思います。目の前の状況は嵐にさいなまれ、いつ船が転覆し、おぼれ死ぬかもしれないのです。パニックになって当然なのです。しかし、主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という弟子たちを非難している言葉を発しています。それはやはり、主イエスが私達に求めている信仰とはこのレベルのものであるということかもしれません。つまり、自分が生きるか死ぬかという状態であっても主イエスを信頼し、動揺しないということです。
しかし、これはかなり難しいと思うのです。やはり、私たちは現実を見て生きています。この様な、生きるか死ぬかという状況でなかったとしても、私たちは日々、目の前の現実を見て、その事を対処しながら、生きています。そして、目の前の現実は良いことだけでなく、都合の悪いこと、問題があります。お金の問題、家族、学校、職場での人間関係、健康の問題など挙げればきりがありません。昨年から続く新型コロナウィルスはまだ収束していませんし、そのことが社会に大きな不安を落しています。病院の病床数の減少、医療関係者のストレス、彼らに対する偏見といじめ、感染者が病院に入院できず自宅療養中に亡くなられること、会社の倒産、感染者に対する偏見、などです。私たちはこうした不安の中で生活しているのです。もちろん、私たちはこうした現実問題に実際に対処していかなければいけません。しかし、私たちが抱いているこうした不安感は今すぐに命の危険を感じることではないにしても、主イエスの弟子たちがおぼれそうになったときに抱いた不安感と共通しているのではないでしょうか?どのようにこの不安感を解消したらよいでしょうか?
一つにはやはり、現実的に対処することでしょう。今まで通り、ソーシャルディスタンス、外出を控える、マスクをする、会食を控える、うがい、手洗い、などです。まだまだ少し時間はかかるでしょうが、ワクチンを打つことや治療薬を私たちが普通に服用することができれば、この状況も少しは改善され、この新型コロナウィルスも従来の季節性のインフルエンザと同じレベルになるかもしれません。
もう一つのこの不安に対する対処はやはり主イエスが彼らの弟子たちに対して言ったように信仰だと思います。この信仰は世間一般でいわれている平常心とは別の物です。信仰とは武道か何かの訓練でやしなわれる何物にも動じない心ではないのです。周りの状況がどうであれ、主イエスを信頼する事です。もちろん、このような信仰を持つことは並大抵の事ではありませんし、信仰があるからといって現実的な対処をしないのであれば本末転倒です。例えば信仰があるから、マスクをしなくても、新型コロナウィルスに感染しないと考えるのは曲解です。現実的な対処はしなければいけないのです。しかし、私たちは難しい事ではありますが、周りに何事がおこっても主に信頼する信仰を持てるよう主に祈ろうではありませんか?それが主が私たちに望まれている事だと思います。今、私達の信仰が試されている時です。
Comments