「信仰が試される時」
2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日
説教題:「信仰が試される時」
聖書 : 旧約聖書 ダニエル書 3章14節-18節(1384㌻)
列王記上 11章9節-13節(549㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達のキリスト者としての生活は洗礼を受けて始まると言ってよいでしょう。もちろん、洗礼を受ける前に教会に通う、もしくは教会学校に通うということはありますが、それはあくまでも洗礼を受ける準備期間です。キリストを受け入れ、その証として洗礼を受け、教会員となってからが正式なキリスト者としての生活、信仰生活のスタートと一般的にみなされます。よく、人々は勘違いをすることがあります。キリストを受け入れて、洗礼を受ければ救われるということです。確かにその通りなのですが、それでオッケーと考えてしまうことです。例えば、この理屈でいうならば、洗礼をすれば、教会に礼拝に来る事も必要ないということになりますし、祈祷会に参加する必要もなくなりますし、奉仕をする必要も、伝道をする必要もなくなります。だって救われたんですから。そうじゃないのです。洗礼を受けることがスタートラインなのです。そこから信仰生活という長いレース、長い旅の始まりなのです。
私達が信仰生活を続けていく時、私達は様々な困難や誘惑に遭遇します。例えば、日曜日が休みでない会社、むしろ、日曜日こそ繁忙期の会社に就職したとします。スーパーマーケットやアミューズメントパーク、遊園地などを想像して下さい。当然ながら会社はあなたに日曜日に働くことを期待します。ですが、日曜日には礼拝に行かなければいけません。どうするか?会社に「私はクリスチャンで日曜日には教会の礼拝に行かなければいけません。ですので、日曜日は休ませて下さい。」と上司に申し出るか?そうすると上司のあなたに対する印象は悪くなることが予想されます。「新人のくせに、特に忙しい時に休むなんてなまいきだ。」という評価が下されかねません。
では、会社の方針に従い、日曜日の礼拝には出ずに出社したらどうでしょうか。先程のような評価はあなたには下されません。ですが、いい評価も下されません。繁忙期に社員が出社するのは当たり前だからです。そして、礼拝に出席しないということが果たしてあなたの信仰生活にどのような影響を与えるかということは推して知るべしと言ったところでしょう。
また、会社と交渉して折衷案を認めてもらうという手もあります。
どういうことかといいますと、例えば1ヶ月の中で半分、第1と第2の日曜日には会社に出社し、第3と第4の日曜日は会社を休ませてもらい、教会の礼拝に出席するというものです。確かにそれならば全く繁忙期に出社しないよりはましですが、バイトでもない新人の社員がそのような事をして、果たしてどのような評価を上司から下されるか心配ではあります。
日曜日や日曜日以外の日で夕拝を行っている教会に出席するということも考えられます。これならいいかもしれませんね。ですが、教会を転会するというのは特にこの日本では難しいと思います。事務手続きがスムースにいくだろうか?果たして私はこの新しい教会に受け入れてもらえるだろうかという不安が心の中にあり、なかなか一歩が踏み出せなくなってしまうということです。
もっともこういう議論の前に、そんなに教会生活が大事であれば、そのような日曜日が繁忙期で出社しなければならない業界の会社を目指して就職活動をしなければ良かったじゃないかという意見もあると思います。ですが、本人がどうしてもこの業界、スーパーマ-ケットのような小売業界、もしくはアミューズメント業界で働きたいという希望があり、このお店で、このテーマパークで働きたいという希望があったとするならばそれも致し方ないのかもしれません。ですが、それでもそれらの業界で働きたいという希望を持ち、就職活動をしたということは教会よりもそこで働きたいという事を優先したのだから、そのような困難に直面するのは仕方がないと言われるかもしれません。
今私が挙げた困難というのは私達が信仰生活をする上でぶつかる困難の一例に過ぎません。実際には私達が信仰生活をしていく上でこれ以外に様々な困難、誘惑があります。そして皆さんはそれらを御存知かと思います。
聖書でも神に召された人々が主に信仰を試された話が出てきます。
例えばアブラハムは息子イサクを主に捧げる(イサクを殺して燃やす)ことを主からお命じになられました。彼は主の命令に黙々と従い、あわや自分の息子を手に掛けようとした時、主の御使いがそれを止めました。アブラハムの目には一匹の雄羊が角を木の茂みにとられていて、アブラハムはそれを息子の代わりに生贄として主に捧げました。
そして主の御使いは言いました。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22章16節から18節)
本日の第一の聖書箇所もまたこのような物語です。ダニエル書です。
もう何度もお話しているので、お分かりかと思いますが、バビロンには多くのイスラエル人が捕囚として連れて来られていました。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもその捕囚の民でした。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは捕囚として連れて来られてから変えられた名前で、本当の名前はハナンヤ、ミシャエル、アゼルヤです。彼らに加えてベルテシャツァルと名前を変えられたダニエルが王に仕えさせられるようになりました。彼らはイスラエルの王族、貴族で、ユダ族の出身でした。彼らは3年間カルデヤ人の言葉と文書を学ばせられてから、王に仕えさせられるようになりました。主が彼らとともにありました。
さて、本日の状況はバビロンの王であるネブカドネツァルが一つの金の像を造り、その序幕式を執り行いました。その除幕式に彼の部下である様々な高官を呼び、音楽がなった時にひれ伏して拝めと命じました。しかし、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは拝みませんでした。それに激怒したネブカドネツァル王の状態です。彼の命令はこうです。「ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる」(ダニエル書3章6節)
彼が怒るのは当然ですね。彼はバビロニア王国の王であり、権力の頂点に君臨していました。その彼をこの三人、国を滅ぼされ、捕囚として連れられてきた人間が私に逆らうなど言語道断であるということです。
彼は彼らに一度チャンスを与えます。
「わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。」
(15節)
しかし、次に彼はこう言いました。
「もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。」
(15節)
ここで少しこのネブカドネツァル王が建てた金の像とはなにかということを考えてみたいと思います。
まず、この金の像とはネブカドネツァルの神であるということです。
彼自身がこのように言っているからです。「お前たちがわたしの神に仕えず」と14節に書かれているからです。しかし、それは偶像の神です。モーセがシナイ山に登り、律法を主から受けとろうとしていた時民はモーセがあまりに帰ってこないので、アロンに新しく彼らを導く神を作って欲しいと要求し、アロンは彼らに黄金の牛の像を作るように命じました。黄金の像と偶像はなにか関係があるのかもしれません。
さらに、この王が作らせた偶像の神は単に偶像の神というだけでなく王自身を指しているように思われます。本日の聖書箇所の一つ前の第2章でダニエルは王が見た夢を言い当て、その解釈をする場面があります。そこにある像が出てくるのですが、それぞれの部分は様々な材質で構成されています。そしてその像の頭は純金であり、それが王であると解釈したのです。
つまり王の命令は自分自身を神として崇めよというものです。
当然それは、彼ら3人は主を崇めているので、そんな事をすることは出来ませんので拒否したということです。
「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(15節)という王の言葉に彼の傲慢さが滲み出ています。
しかし、王の言葉を受けた3人は清々しいまでにはっきりしています。まず初めに「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。」(16節)と言い放ちました。バビロンの王、権力の頂点に君臨する者に対して「答える必要はない」とはあまりにも王を小馬鹿にした言い草です。
そして、17節で彼らは主が彼らを確実に救うし、18節ではもし救われなかったとしても王の神々(ここでは複数形になっていますが)に仕えないし、金の像を拝まないと言いました。
19節で王は激怒しました。当然です。滅ぼされたイスラエルの捕囚民風情がこのバビロンの王を小馬鹿にし、逆らったわけですから。
王は炉を通常の七倍に熱くし、兵士達に命じて彼ら3人を炉に放り込みますが、彼らは一切何の害も受けませんでした。それに驚いた王は方針を改め、彼ら3人の神を崇めるよう命じました。
ここに信仰の試しがあります。王の命令に逆らえば、炉に投げ込まれ、死ぬかもしれないという可能性が実際あったわけです。それでも主により頼む、主に従う。そこに私達の信仰の錬成があるのです。私が最初に挙げた信仰の試し、困難などこれに比べたら大したことはないのかもしれません。ですが、私達が日々遭遇する信仰の試しはやはり私達にとっては重要なことであると私は思います。比べることは意味ないのです。
本日の第2の聖書箇所に入ります。ソロモン王の背信です。彼はダビデ王とバト・シェバとの間に生まれた息子であり、ダビデ王の跡を継いだ王でした。ダビデ王は主の神殿を建てようとしましたが、主の神殿を建てるのは息子であるソロモン王であると主は仰せられ、その通りソロモン王が建てました。そして、主は彼の元に現れ、何が欲しいと訪ねられた時、彼はイスラエルの民を束ねる知恵が欲しいと言いました。
それは主の御心にかないました。彼は知恵だけでなく、栄華、富も与えられました。このように主に愛されたソロモン、箴言を書いたとされるソロモンが主を裏切ったのです。どういう裏切りかというと偶像崇拝です。
主はすぐにはその裏切りに対する罰をせず、二度彼の元に現れ、主に立ち返るよう戒めたが、彼は従わなかったので、彼の代ではしないが、彼の息子の代で王国を二つに裂くと仰いました。
そして事実そうなったのです。
なぜ、主に愛され、知恵もあり、主に従っていたソロモンが偶像礼拝の罪に陥ったのでしょうか?それは彼の女性関係にあったということです。彼は多くの外国の女性を妻や側室にしたのですが、彼女たちが彼を彼女たちの神々に向かわせてしまったということです。これだけを見ると何かソロモン王が女性が好きという印象を持たれるかもしれないのですが、どうもそういうことではなく、ソロモン王は他国の王女たちと婚姻関係を結ぶことによってイスラエルの国を外交的に安定させたかったという意図があったようです。ですが、そういう意図であったとしても、結果としてその女性達によって主から離れ偶像礼拝に陥ってしまったことに変わりはありません。そして、結局のところ、主に頼るよりも他の国々を頼ることを優先したということです。つまり、主よりも目の前の現実を優先したのです。結果は主に対する背信です。
このようなことはそれ以前にも起こっています。例えば、主がエジプトからイスラエルの民を導き出し、新しい土地に入れようとした時、先住民を滅ぼしなさいと命じました。滅ぼさないで、彼らと親しく交わり、自分たちの息子や娘を彼らの娘や息子に与えて、彼らと親戚関係になってはならないと命じました。先住民と親しく交わることによって、イスラエルの民が惑わされ先住民の神を拝むという偶像礼拝の罪に陥ってしまうことを主が心配したからです。主の心配は現実となりました。それは士師記を見ればわかります。
同じことがソロモン王にも起こったのです。
バビロンでネブカドネツァル王に逆らい主への信仰を表した3人とこの主に逆らったソロモン王は何が違っていたのでしょうか?
この3人は現実的にネブカドネツァル王に逆らったら燃える火の炉に投げ込まれるという現実よりも主に対する信仰を優先したのです。ソロモン王は主に対する信仰よりも現実的な外交上の他国との同盟を優先したのです。結果はどうだったでしょうか?彼ら3人は無傷であっただけでなく、ネブカドネツァル王が自分の信念、つまり黄金の像を拝ませるということを曲げて、彼ら3人の主を拝まされる、主の御名が高められました。ソロモン王の場合はどうだったでしょうか?彼の息子の代になって王国はユダ王国とイスラエル王国という二つに別れました。外国の脅威は常にあり、ユダ、イスラエルも互いに争うこともありました。国内は不正がはびこり、双方の国は主から離れました。主は度々預言者たちを双方の国に送りましたが、彼らは聞く耳を持たず、かえって預言者たちを迫害しました。そして、ユダ王国、イスラエル王国ともに滅びました。捕囚の憂き目にもあいました。
私達は生きている限りどうしても目の前の現実を見てしまいます。ソロモン王のように現実的な手段にたよってしまうのです。ですが、私達の信仰生活の中で大なり、小なり信仰が試される機会があります。その時に主の御心に叶う選択をすることができるよう聖霊に導いて頂きたいと思います。
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