「信仰によってのみ正しいとされる」
- urawa-church
- 2023年11月5日
- 読了時間: 6分
2023年10月29日 聖霊降臨節第23主日 宗教改革記念日
説教題:「信仰によってのみ正しいとされる」
聖書 : 新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章21節-28節(277㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は宗教改革記念日礼拝です。宗教改革記念日というのは実際10月31日の火曜日ですので、今日から2日後ということになります。しかし、その日に一番近い日曜日は本日でしたので、このように宗教改革記念日礼拝を行っているわけです。皆さんももうご存知かと思いますが、宗教改革は16世紀にローマ・カトリック教会に対してマルチン・ルターが起こした改革運動とそれに続くスイス、フランスのカルヴァンなどの活動の事です。
当時ローマ教会ではローマ教皇位の世俗化、教職者の腐敗、そして過度な礼拝の儀式化などがありました。そして贖宥符(しょくゆうふ)の発行までありました。贖宥符または贖宥状というのは人々がお金を教会に払い、これを買うことによって罪が赦されるというものです。なぜこのようなものをローマ教会が発行したかというとサン・ピエトロ大聖堂の改修のための資金を集めるためです。
このようなローマ教会の行為に対して批判をしたのがマルチン・ルターでした。彼は1517年10月31日に「95か条の論題」をウィッテンベルク市の教会とウィッテンベルクの場内に打ち付けました。これが宗教改革の始まりです。そしてこのルターの批判は当時の活版印刷術により広まり、ローマ教会に不満を抱いていた諸侯や騎士、市民や農民といった人々を巻き込んで大きな運動へと発展していったということです。そして先程も申し上げたように、ルターの後から様々なローマ教会に反対するキリスト教の運動が起こりました。なぜ私達にとってこの宗教改革運動が重要かというとこの宗教改革こそがプロテスタントの誕生だからです。
私達が所属しているナザレン教団はこれからずっと後に誕生するのですが、私達の教団もまたこのプロテスタントの流れから誕生したものなのです。ですから、重要なのです。
本日の聖書箇所です。21節で「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」と書かれています。どういうことでしょう。主イエス・キリストこそが神の義であるということです。私達はもう何度か、いやもう幾度となく福音書を説教で聞いたり、自分で読んできました。そこではよく主イエス・キリストとファリサイ派、律法学者達とが対立してきたのを見てきました。その原因の多くは彼らの主張する律法を主イエス・キリストは守っていないというものでした。例えば、主イエスが安息日に人を病気から癒せば、安息日は働いてはいけない日にも関わらず、人を癒やすことで働いているので、律法を破っていると主張し、主イエスを非難するということです。しかし何が正しく、何が神の御心にかなっているかということを考えれば、おのずと神の前に本当に正しいことが見えてくるはずです。
そして福音書には預言者の引用が度々出てきます。例えば、マタイによる福音書で主イエスの誕生をヨセフが告知される場面です。1章18節から25節なのですが、22節から23節にこう書かれています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
そして、主イエスご自身が律法と預言者の事を尊重しています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。」
(マタイによる福音書5章17節から19節前半)
また主イエスはユダヤ人達にこうも仰いました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」
(ヨハネによる福音書5章39節から40節)
主イエス・キリストはこの地上で福音を宣べ伝え、十字架の上で死に、私達の罪の贖いをし、復活されました。この事を信じることこそが、神に義とされることです。信仰による義です。本日の聖書箇所の22節から26節にその事が書かれています。
さて、27節から本日の最初の箇所28節まで一つの対立が見えます。つまり信仰による義と律法の行いによる義です。これは主イエスがこの地上で生きていた時からありました。主イエスとファリサイ派、律法学者たちの対立で見られましたよね。ですが、結局私達はこの律法の行いの法則では義に達せられないということが私達にはわかるかと思います。
先程の、安息日の事を思い出してください。安息日であっても病に苦しんでいる人々を癒やすことと安息日だから病に苦しんでいても癒やさない。はたしてどちらが神の前にあって義と認められるでしょうか?おのずと答えはわかってくると思います。主イエスを信じ、主イエスの考えを自分の考えとすることこそ正しいことなのです。
ファリサイ派、律法学者達は自分たちの律法主義、つまり律法を守ること、律法を行うことで神の前で正しいとされると思いました。しかしそれは主イエスによって否定され、主イエスを信じる信仰によって正しいとされるということが明らかになったのです。
ですが、権力というものは腐敗するものです。ローマ教会が今度はこのような病に陥りました。つまりローマ教会が国王よりも巨大な権力を持つことによって、腐敗、不正、過度の儀式、挙げ句の果てに贖宥符の発行による拝金主義に陥ってしまいました。主イエスがこの地上で伝道をしておられた時もファリサイ派、律法学者たちがユダヤ教の中で中心的地位を占め、権力を振るっていたのですが、同じことをローマ教会がしていたのです。主イエスがこの地上で伝道をし、彼らを批判し、神の義を示されました。
そればかりでなく、十字架で私達の罪を贖っていただきました。
それと同じようにというと語弊はあるかもしれませんが、マルチン・ルターがこのローマ教会の不正に対して異議を唱え、信仰によってのみ、そして聖書の御言葉によってのみ私達は救われると説いたのです。神のご計画というのはなんと深遠なものでありましょう。そしてその結果として私達はこうしてナザレンの群れとして今この場にいるのです。
人の正しさというものは虚しいものです。この前の説教でも申し上げましたが、パレスチナとイスラエルの双方に正義があります。彼らに言い分があるのです。また国連の決議案を見てみましても、アメリカ、ロシア、といった大国がこの問題を解決する、少なくとも当面の戦争が中断するために決議案を提出していますが、否決されました。国連議長の発言もパレスチナよりだとイスラエルから言われ、国連職員のビザの発行はイスラエルが停止するということです。人の知恵、人の正しさというものがいかに虚しいものであるかとまざまざと見せつけられています。
私達はいまこそ信仰によって神の義を求めるべきではないでしょうか?
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