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「信仰による勝利」

2024年8月4日 聖霊降臨節第12主日

説教題:「信仰による勝利」

聖書 : 士師記 6章36節-40節(391㌻)​​​​

​   Ⅰヨハネの手紙 5章1節-5節(446㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 エジプトで奴隷状態のイスラエルの民がモーセをリーダーとして主に救われた話はご存じだと思います。ですが、その時もですが、その後もこの民は神に逆らってきたという歴史がありました。モーセは遺言で彼らに主に従うよう命じました。主に従えば、幸いを得るが主に逆らえば滅びとなるとも警告しました。それは申命記に書かれています。民が約束の地に導かれた時、モーセの後を継いでリーダーとなったのがヨシュアでした。彼もまた前任者であるモーセと同じ遺言を残しました。すなわち主に従えば、幸いを得るが、主に逆らえば不幸に見舞われるということです。それはヨシュア記23章から24章にかけて書かれています。

 さてヨシュア亡き後、イスラエルの民はどうなったかということが書かれているのが士師記です。彼らは主に従わず、その地の神々を拝み出しました。そして主は彼らをそこに住んでいる異邦人に渡されました。異邦人たちは彼らを虐げ、その虐げに耐えられなくなると、彼らは主に助けを求めました。そして主は士師と呼ばれる人、リーダーを起こし彼らを救いますが、助け出されると彼らはまた主に逆らい、異邦の神々を拝むということをします。その繰り返しの歴史が書かれたものが士師記です。

 本日の最初の聖書箇所もその士師の一人の話です。その士師の名前はギデオンと言いました。その当時イスラエルの民は主の目に悪とされること、アマレク人の神を拝んでいたのです。主はミディアン人を強め、彼らはアマレク人や東方の諸民族を連れ立ってイスラエルの民を攻めたてました。

 具体的に彼らが何をしたかというと、イスラエルの民が植えた産物を荒らしたり、羊、牛、ろばなどを奪ったりと命の糧となるもの全てを奪い去ったということです。そこでイスラエルの民はいつものごとく主に助けを求めたということです。困った時の神頼みという言葉がありますが、まさにそれですね。実に都合がいいわけです。普段は主を忘れ、主に逆らい、自分たちの好きなようにしたいと思い、そのように行動する。しかし、困った時には主に頼むわけです。

 主はイスラエルの民の罪を指摘しつつも、彼らを助ける士師ギデオンを起こしました。もしかすると、皆さんはこのギデオンという名前に心当たりがあるかも知れません。ギデオン協会という団体がありまして、聖書を普及する活動をおこなっています。たまにホテルなどに泊まりますと新約聖書が置いてあることがあります。あれを配っているのがこのギデオン協会なのですが、このギデオンという名前はこの士師の名前から来ているのです。

 さて聖書に戻ります。主は御使いを送り、このギデオンを士師として召集します。私たちキリスト者の言葉で言えば、召命です。   

ですが、当のギデオンはこの召命に後ろ向きです。「主が共におられます。」という主の御使いの呼びかけに対して彼は不平を漏らします。「主が共におられるならどうしてミディアン人にこのように圧迫されているんですか?」ということです。人間というものは私を含めてですけれども不幸に遭遇すると不平不満を口にするものです。神も仏もあるものかという気持ちになってしまいます。私たちもクリスチャンだからといって試練に遭遇しないという保証はないですし、主は試練に遭遇させ、私たちを成長させようともなさいます。

さらにいうならば、この件においてはイスラエルの民が異邦の神を礼拝し、主に逆らったからこのような事態になったということは明白なのです。この時代の前に、モーセ、ヨシュアといった民のリーダーは遺言として民に警告を発していました。さらにこの時代にも主は預言者を遣わし、この彼らの罪を明らかにしています。つまりギデオンの主に対しての不満というのは極めて身勝手な考えなのです。つまり主が共におられるならば私たちが好き勝手に振る舞っていても、主は災いをもたらさないということです。

 しかし、主はそんな身勝手な人々をもこのギデオンを通して助けようとしているのです。

まさに恵と憐れみに富みたもう主であるのです。

しかしギデオンはやはり気の小さい人であったようです。彼はこのように言うのです。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(士師記6:15)

主は力の弱い者、例えば地位が低かったり、武勇が優れていなかったりする者を通して働かれることがあります。

モーセの召命の時はどうだったでしょうか?彼はあまりうまく喋ることができませんでした。彼は何度も召命を拒否し、最後主から叱責されました。サウロといっても使徒パウロの以前の名前ではなく、旧約聖書に出てくるイスラエルの最初の王の名前です。

彼は途中で主の命に逆らい、主に排斥されるのですが、彼もまた主に選ばれた人物でありました。彼が召命を受けた時、彼の出自もまたあまり高くはありませんでした。ですが、主は彼らを通して働かれたのです。


 それが主の価値観であるからです。元々イスラエルの民の選びからしてそうでした。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

(申命記7:7-8)

パウロはコリントの信徒に対してこのように言っています。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

(Iコリントの信徒への手紙1:26-29)

ギデオンの選びもこのためであったと考えられます。

 ギデオンの信仰というものは確固たるものではありませんでした。なぜならしるしを求めたからです。最初は供物を捧げるから少し待っていて欲しいと主に頼み、供物を持ってきたところ主はそれを焼き尽くしました。その後主は彼に異邦の神々であり、イスラエルの民が信奉しているバアル像とアシェラ像を破壊するようお命じになられました。彼は破壊したのですが、父の家族と町の人々を恐れてそれを夜に行いました。ここに彼の躊躇いと申しますか、弱さを見てしまうのですが、とにかく彼は主の命に従ったのです。

 翌朝町の人々はこの破壊された状況を発見します。これを行った者の捜索がなされ、ギデオンがこの事を行ったということが分かり、ギデオンの父ヨアシュに息子ギデオンを渡すよう迫ります。殺すためです。しかし、父はそれを拒みこのように言います。バアルが神であるなら、バアルが争えば良いと。そして町の人々を退けます。


 そういう状況の中で本日の聖書箇所に入っていきます。ここでもギデオンは主にしるしを求めます。「羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。」

(士師記6:36-37)


 ギデオンがそのように願うと、そのようになったということです。しかし、まだギデオンは納得しませんので、もう一度主にしるしを求めます。「羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」

(士師記6:39)

するとそのようになりました。

 このように2回もいや最初を入れますと3回も主にしるしを求めるというのは随分とこのギデオンという人は気の小さい、もしくは主に対して不遜に振る舞っているなという印象を持ちます。旧約聖書時代に信仰に生きた人々も主に対してしるしといいますか、証拠を求めましたのでなんともこのギデオンだけが特別ではないのかもしれませんが。

 ここで重要なことは登場人物の主に対しての信仰の度合いです。まずイスラエルの民全体の信仰の度合いを見てみましょう。もう何度か申し上げてきましたが、主を捨て、他の神々に仕え、圧迫されると主に助けを求めるような信仰です。さらにその他の神々の像が壊されたといって、犯人探しをし、ギデオンを殺そうとまでしました。そのような信仰?いや信仰というのもおこがましいですがそのような者です。

 ギデオンの信仰はどうでしょうか?

確かに最初は主に不平を言っていましたが、偶像を破壊せよという主の命令に従いました。

そして主を試すようなことを何度かいたしましたが、主はこれに応じました。それはギデオンの信仰の成長を促したのではないでしょうか?

ギデオンは、主は本当に信頼に値する神であるだろうかという疑問を持っていたと思います。彼の疑問を主は一つずつ取り去っていったということです。それが彼の信仰の成長につながっていたのだと思うのです。モーセもまた召命された時はそれを辞退するような信仰の弱い人でしたが、主が一つずつ事をなしていったので彼の信仰が増していきました。主は信仰の弱い人に同情できない方ではありません。またその弱い信仰を強めることもできる方なのです。

主によって信仰が強められたギデオンはやがてイスラエルの民を救うことになります。


 本日の第2の聖書箇所に入ります。ここでヨハネが言っている信仰とは当然主に逆らってきたイスラエルの民の信仰とは違います。

そしてギデオンのようにいちいちしるしを求めるような信仰とも違います。「イエスがメシアであると信じる」信仰です。私たちが持っている信仰です。私たちは主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架にお掛かりになられ亡くなられたこと、そして三日目に復活したことを信じているのです。その信仰を持っているのです。

神を愛し、神の掟を守る信仰を持っているのです。この世に打ち勝つ信仰を持っているのです。この世には様々な考え方が溢れています。ですが、注意していないとその考え方に飲み込まれる可能性があります。そうならないために

私たちの軸足をキリストに置くのです。

「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」

(Iヨハネの手紙5:5)

それは私たちです。

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