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「信仰の道」

2024年6月9日 聖霊降臨節第4主日 子どもの日(花の日) 

説教題:「信仰の道」

聖書 : Ⅰヨハネの手紙 2章22節-29節(443㌻)​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日はこどもの日、花の日礼拝です。この記念日礼拝も母の日礼拝と同様にアメリカの教会に由来しているのです。1856年にアメリカのマサチューセッツ州チェルシイ市の普遍主義教会の牧師のチャールズ・H・レナード師が始めました。師は6月のある特定の日曜日にこども中心の集会や献児式、祝福式を行ったり、特別集会を行いました。それが19世紀後半に教派を超えて浸透し、6月は花が咲き始めるので花に関連する行事と結びつき、徐々に子どもの日、花の日となっていったということです。そして1866年、アメリカのメソジスト教会が6月の第2日曜日を「こどもの日」に制定して、信者たちが花を教会に持ち寄り、教会を飾り、礼拝後には子どもたちが病人を見舞ったり、警察署といった施設を訪問したということです。


 私はナザレン教会に入る前に単立の教会に通っていましたが、そこでもこの行事は行われていました。何人かの子どもと引率する大人が警察署、交番、消防署、病院、ケアハウスなどを訪問しました。とても良い思い出です。

 さて本日の聖書ですが、1ヨハネの手紙です。これは主イエスの弟子であるヨハネが彼に託された信仰の群れ、ヨハネ共同体と呼ばれる集団に書き送った手紙です。この手紙の中で中心は「互いに愛し合いなさい。」ということです。

 本日の聖書箇所の前の部分なのですが、「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」(1ヨハネ2章9節から11節)

 本日の聖書箇所の先の部分なのですが、3章10節から18節にその事が書かれています。全部ではありませんが、いくつかをお読みいたします。

 「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。」(10節)

 「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」(11節)

 「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(18節)

です。


 さらに言うならばこのヨハネの手紙を書いたヨハネはヨハネによる福音書を書いたとされていますが、その15章12節には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と書かれています。これは主イエスの言葉でもあります。

 ですから「互いに愛し合いなさい」ということが重要であります。「互いに愛し合う」とはどういうことでしょうか?それは相互関係です。だれかから一方的に愛してもらうことではありません。人から愛してもらう、良くしてもらうというのは気分がよいものです。逆に人から傷つけられたりするのはいやなものです。ですからいつも人から愛してもらいたい、良くしてもらいたいと思うのは人として当たり前のことだと思います。ですが、それは相手も同じではないでしょうか?自分は傷つけられたくないが、相手は傷つけてもかまわない。それ以前に自分が傷つけられていることには敏感だけども、自分が相手を傷つけているということには敏感でないということもあります。そして自覚したとしても、その事を軽く流す、理由をつけて正当化することがあります。先程「互いに愛し合うこと」は相互関係だともうし上げました。それは本日皆さんと一緒にお読みしたウクライナ・ロシアの祈りの最後の部分に書かれています。

 「主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。」ここから互いに愛し合うことが始まるのではないでしょうか?


 人と話していると意見の違いがあります。ですが、異なった意見を持っていたからといってそれを押し付けることはいけません。冷静に話し合うことが必要です。相手を尊重しなければいけません。押し付けるということは自分の意見に従いなさいということです。果たしてこれは愛し合うことでしょうか?

 再度ウクライナ・ロシアへの平和の祈りを持ち出すのですが、このように書かれています。「互いに食い違う平和への認識を分かち合い、尊重しながら、平和を目指して共に歩む、その知恵と忍耐をわたしたちに与えてください。」


 ですがそうは言っても私達は罪深い人間です。正確に言えば、主イエスに救われたのですが、未だもってこのような罪深い性質を引きずっているのです。だからこそ主の助けが必要なのです。

 ここからが本日の聖書箇所です。22節から23節「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」と書かれています。 


 皆さんは多分この事と「互いに愛し合うこと」とそれに関係するこれまでの話とどう結びつくんだと思われるかもしれません。だってたとえ兄弟を憎んでいたって、互いに愛し合うことをしていなくたって言葉で主イエスと父なる神を受け入れますということが出来るじゃないかということですね。たしかに出来ます。しかし、それは表面的なものです。本当の意味で主イエスも父なる神も受け入れてはいないのです。それは24節に書かれています。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」

 「初めから聞いていたこと」とは何でしょう?

 「互いに愛しあうこと」です。


 それは自分が愛してもらうではなく、愛することです。自分が相手を支配する、相手に言うことを聞かすではなく、自分を神に預けることです。そうすれば聖霊に導かれ、御子の内にとどまり、信仰の道を歩むことが出来ます。28節でヨハネは信者に「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」と言っています。彼は慈愛を込めて「子たちよ」と呼びかけています。

 主イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきたのに、弟子たちがこれを叱りました。弟子たちはこの人々の行為が不敬に当たると考え、そのような行動を取ったのです。ですが、主イエスは弟子たちを叱りました。

 

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(マルコによる福音書10章14節から15節)

 果たして私達は子どものように主イエスを受け入れる信仰を持っているでしょうか?プライド、支配欲などで心を満たされてはいないでしょうか?

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