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「信仰義認か行為義認か?」

2021年10月31日 降誕前第8主日礼拝 / 宗教改革記念日礼拝

説教題:「信仰義認か行為義認か?」

聖書 : 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章15-21節(344㌻)

ヤコブの手紙 2章14-18節(423㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 みなさん、本日は大事な事が3つあります。衆議院選挙、ハロウィン、そして宗教改革記念です。衆議院選挙はこの国のさまざまな重要事項を国会で論議し、決定していく国会議員を選ぶ大事な選挙です。また、ハロウィンは近年日本で普及してきたように思いますが、以前はあまり流行していなかったお祭りです。欧米では普及していました。アメリカなどでは子供たちが家々をまわり、トリックオアトリート(いたずらかお菓子か)と言ってお菓子をもらいます(お菓子をもらえないからといって、本当に何かひどい事をするというわけではありません。)また、一般家庭ではホームパーティなどをします。しかし、元々はケルト民族のお祭りであり、この日に死んだ人の魂が家族の元へ帰ってくる、もしくは悪魔や魔女が帰ってくるとケルトの人々に信じられていました。このような異教のお祭りで、しかも考え方が、死者の魂がこの日に帰ってくるといったコンセプトであることがキリスト教の考え方と相容れないということから、クリスチャンの中にはこのような祭りを祝うべきでないという方もいらっしゃいます。実際、私がアメリカでお会いした神学生、留学生だったと思うのですが、「キリスト教国のアメリカで悪魔を祝うお祭りをするなんて信じられない」と少し怒っていました。もちろん、このハロウィンは欧米で普及してはいますが、教会での正式な行事とはみなされてはいません。

 そして、本日、私たちキリスト者にとって最も大切な出来事が宗教改革記念日ということです。ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、マルチン・ルターが教会の免罪符の発行(信者は免罪符を購入する事で罪が許される)などの腐敗を攻撃し、95箇条の意見書を提出し、信仰の基盤を聖書のみと主張した運動に端を発する運動のことです。その後さまざまな人々が教会の改革を訴え運動を起こし、プロテスタント教会がカトリック教会から分離しました。ユダヤ教から分離し、古代キリスト教会の始まりがペンテコステとするならば、プロテスタント教会の始まりはこの宗教改革と言っていいでしょう。その後、様々なプロテスタント教派が起こってきます。そして私たちナザレン教会もまたその後おこったプロテスタント教派の一つであるということを忘れてはなりません。ですから、ナザレン教会に属する私たちもこの事をなおざりにしてはいけないと思うのです。


 先程、申し上げたように、ルターは免罪符の発行を始めとする教会の腐敗を批判し、95箇条の意見書を教会に提出し、それが宗教改革運動の発端となり、今日の様々なプロテスタント教会の礎となりました。そのルターは聖書のみに権威があるということを主張したのです。ルターはなぜそのような主張をしたのかと言うと、その当時の教会には聖書以外に様々な権威があったのです。例えば、神父や法皇といわれる人々が権威を持ち、リタジーと呼ばれる祭儀にも権威があるとし、これらの権威を持っている人々がその権威を濫用し、礼拝もまたラテン語(神父といった教職のみ理解できる言葉)で行われ、説教も行われず、リタジー中心の礼拝でした。一般の人々は礼拝に来てはいたのですが、彼らは自分たちの理解できない言葉で話され、説教(神の言葉)も聞く事が出来ず、訳のわからないリタジーに参加していたのです。いわば、福音は一般の人々から取り上げられていたということです。その福音を一般の人々の手に取り戻そうという事でルターはこの行動を取ったのだと考えます。ルターが聖書のみに権威があるとしたのもこれでわかるかと思います。そして、彼は「信仰義認」という考えを持つようになります。「信仰義認」とは少し難しい言葉ですが、「人が正しいとされるのは信仰による」という考え方です。この考え方は使徒パウロが書いた手紙に多く見られます。本日の最初の聖書箇所もそうです。

「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」とガラテヤの信徒への手紙2章15節から16節でパウロは言っています。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」という15節の部分にパウロのユダヤ人としての誇り、悪い言葉でいうならば、奢りをみてしまうのです。「自分たちは神に選ばれた聖なる民であり、神から与えられた聖なる律法もきちんと守っている。汚れた異邦人たちとは違うのだ。」という考え方です。これはユダヤ人の間で共通して持たれていた考え方です。使徒言行録11章1節から18節にはペトロが霊によって異邦人の家に導かれ、彼らに洗礼を授けた事を非難されることが書かれていますし、ヨハネによる福音書4章の1節から2節では主イエスが井戸に水を汲みにきたサマリヤ人(異邦人とユダヤ人との間に生まれた人々の子孫)の女性に水をお求めになったところ、この女性が、ユダヤ人の主イエスが彼女に話しかけたことに疑問を投げかけた事が書かれています。さらに、ヨハネによる福音書8章33節にはユダヤ人たちが主イエスに対して「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と言いました。このユダヤ人たちが自分たちはアブラハムの子孫でそのことでいかに自分たちが神の前に正しいのかということを主張しています。だからこそ、マタイによる福音書3章9節でバプテスマのヨハネは彼に洗礼を授けてもらうために来たユダヤ人にこのように言われたのです。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

やはり、これらユダヤ人たちが持っていたこの考え方は彼らを驕(おご)り、高ぶりという罪へと導いたのだと思われます。そして、このような考え方をマルチン・ルターが生きていた時代の聖職者と呼ばれている方々も持っていたのではないでしょうか。私たちは聖職者で、罪人ではないから大丈夫であるという驕り、高ぶりです。 


 本日の聖書箇所に戻りますとガラテヤの信徒への手紙2章15節のパウロの発言もまた、私にはあのパウロですらこの考え方を持ってしまったのかという思いでした。しかし、パウロはここで終わらないのです。それが16節です。彼は「律法の実行によってはだれ一人義とされず、主イエスに対する信仰によってのみ義とされる。」と主張しました。パウロはこの罪につながる考えから逃れ、この主イエスを信じる信仰による義という真理に導かれました。

19節から20節はパウロの主イエスに対する信仰を言い表し、律法による義との決別を表しています。「律法に対しては律法によって死んだのです。」「律法によって死んだ。」なんという強い表現でしょうか。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」「死」「十字架」「新生、復活(キリストが内で生きること)」「信仰によって生きること」これらの大切な事をパウロは経験したのです。素晴らしい事です。ですから、主イエスを信じる信仰によって人は義とされるという「信仰義認」は正しいのです。


 では全く行動はこの義認に関係ないのでしょうか?本日の第2の聖書箇所ヤコブの手紙を見てみましょう。2章14節にはこのように書かれています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」

まるで、今までパウロが主張してきた「信仰義認」と対立している主張です。実際ルターはこのヤコブの手紙を「藁(わら)の書簡」と呼び重要視しませんでした。多分、「信仰義認」を主張するパウロを支持するルターとすれば、このヤコブの手紙は認めたくない物だったのかもしれません。


 「信仰義認」は正しいのです。しかし、信仰には行動が伴わなくてはならないというヤコブの主張もまた正しいのです。ヤコブの 主張は見せかけの行動をしたファリサイ派、律法学者たちのものとも違いますし、信仰の伴わない、律法を守ってさえいれば、義とされるという「行為義認」とも違います。ヤコブの主張することは「信仰が行動となって表に出てくる」ことなのです。「もし、信仰を持っているならば、それが行動となって表に出てくるはず。」ということなのです。主イエスも内面が表に出てくることを度々指摘しています。ルカによる福音書6章43節から45節で主イエスは「良い木は良い実をつけ、悪い木は悪い実をつけるし、その結ぶ実によってその木が良い木か悪い木かが分かる。」と言われ、さらに続く46節から49節では主イエスの言葉を聞いて、それを実践することの大切さを教えています。これを読むとやはり、信仰が行動を伴って働くことが大切だと私は考えます。


 パウロの「信仰義認」が拡大解釈され、ルターの時にさらに拡大解釈されたのではないかと思うのです。つまり、主イエスを信じる信仰によって人は義とされるのだから行動は関係ないというわけです。ヤコブの手紙2章1節から13節には金持ちの人には親切にし、貧しい人に厳しく接し、人を分け隔てする礼拝に参加しているキリスト者が描かれています。そして、このような人は憐れみのない裁きが下されるとヤコブは言っています。これは喩えかもしれませんが、もしかすると実際に起こったことなのかもしれません。つまり、主イエスを信じる信仰を持っていると主張していた人がこのような人を分け隔てする、無慈悲な事をしていたのかもしれません。もしかすると、このような事をし続けていたのかもしれません。そして、私は主イエスを信じる信仰を持っているから行動は関係ないと主張したのかもしれません。しかし、果たしてこのような主張をする人の信仰は神の前にあって正しいのでしょうか?「木はつける実によって判断される。」ということではないでしょうか?

だからこそ、ヤコブは18節で「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」とまで言っています。

ですから、私たちは主イエスを信じ、受け入れた信仰によって罪を赦され、義とされました。それは疑いようのないことなのです。しかし、その信仰は義の実である行動を促すものだということです。私たちは常に試されています。ですから、私たちの信仰、からし種一粒ほどにも満たない信仰ではありますが、それを支え、そして行動を伴えるように神に祈ろうではありませんか。

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