top of page

「信仰者サムソン」

2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝

説教題:「信仰者サムソン」

聖書 : 旧約聖書 士師記 16章26-32節(410㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態であったのを主なる神が助け出し、彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにお誓いになられた約束の地であるカナンに導き入れられたということを私はこれまで折りに触れ、何度か皆さんにお話をしてきましたので、覚えておられる方もいらっしゃると思います。そしてそこに行き着く過程で様々な問題があり、紆余曲折があったということもお話してきたと思います。問題自体は様々なのですが、原因は一つなのです。それは民が主なる神または主なる神が民のリーダーとしてお立てになられたモーセ、アロンに逆らったからなのです。

結果としてこの逆らった民は主なる神が約束した土地に入ることが出来ませんでした。モーセですら入ることが出来ず亡くなりました。この世代でこの地に入ることを許されたのは主なる神に従ったカレブとヨシュアだけで、後は40年間砂漠をさすらった後に亡くなられたのです。そして次の世代の人々がその地に入ることを神に許されたのです。


 モーセが亡くなった後、ヨシュアがこの民のリーダーを引き継ぎました。民は神の元そしてヨシュアのリーダーシップで、約束の地において元々住んでいた民を征服していきました。しかし、十分に征服しつくすことは出来ませんでした。


 そして、ヨシュアの死後も神の元で元々住んでいた民を征服していきましたが、征服し尽くすことは出来ませんでした。これには理由があります。民はこの地に元々住む民を滅ぼしたり、追い出したりするよりも、契約を結んで、追い出すことをしなかったので、元々住んでいた住民は一緒に住むことになりました。

もちろん、今の私達の価値観からすれば、こちらの方が人道的であるので私達にとっても受け入れやすい事かもしれません。しかし、主なる神はイスラエルの民に「この元々住んでいた住民を滅ぼす、もしくは追い出しなさい」とお命じになられました。

彼らは主の命令に背いたのです。彼らの先祖もまた、モーセの生きていた時代、ヨシュアの生きていた時代に主なる神に逆らいました。そして、モーセもヨシュアもこの世を去る時に民に「主に従うか」と問い、民は「従う」と答えたにもかかわらず、民は主なる神に従わなかったのです。

ですから、主なる神もこれらの民を追い出しませんでした。

この事は本日の聖書箇所の前、士師記2章1節から5節に書かれています。状況はさらに悪くなります。

まず、主なる神がイスラエルの民になされた事を知らない世代が起こってきました。

本来であれば、主なる神がイスラエルの民を奴隷であったエジプトからお救いになられ、この約束の地に導き入れられた偉大な御業を後の世代に伝えることはこの前の世代の人間の義務であると思うのですが、彼らはこの義務を怠ったのだと思うのです。その結果として主なる神の大いなる御業を知らない世代が起こるという事態になってしまったと考えます。彼らは主なる神を知らないがゆえに彼らの身近に住んでいる周辺住民の神々にひれ伏し、仕えました。偶像崇拝です。彼らの行為は主なる神を怒らせ、彼らを周辺住民の支配下に置かせました。当然彼らは苦しみます。苦しんで、彼らが主なる神に助けを求めると、助け主を彼らに遣わし、彼らを助けるのですが、助かるとまた彼らは偶像礼拝に走るという繰り返しだったのです。

これも主なる神の命じたことを行わなかった、すなわち、打ち負かした周辺住民を追い出さなかったせいでした。彼らを追い出さず、彼らが周辺に住んでいたので、彼らの神を礼拝するようになり、彼らに逆に征服されるような機会を与えてしまったのです。

主なる神はこうなる事を分かっていたのかも知れません。ですが、主なる神は士師と呼ばれる助け主、裁き主を民に送られ、彼らを助けました。


 主なる神が選ばれた助け主、裁き主と聞くと皆さんは立派な人物を想像されるかもしれませんが、こと聖書に出てくる主なる神に選ばれた人物で言うならば、さらに言うならば、士師という人物で言うならば、必ずしもそういう人物ではないのです。

 

 例えば、モーセは最初に主なる神に召された時、自分は話すのが苦手だという理由で最初、召命を断っています。ダビデは間違いを犯しました。預言者エリヤもまた権力者を恐れ逃げていた時期があります。つまり、人間として立派ではない、欠けがある人間を主なる神はお選びになられています。


 今度の聖書箇所に出てくるサムソンはどうでしょうか?彼はどんな人物だったのでしょうか?

彼が生まれる前に彼の母親に主の御使いからお告げがあり、彼女は不妊であったが、男の子を生むこと、この子はナジル人として神に捧げられているので、彼女はぶどう酒や強い酒を飲まないよう、汚れた物も食べないようにすること、その子の頭にかみそりをあててはならないことをこの御使いから申しつかりました。その子供の誕生を御使い、もしくは天使から告げられるのはアブラハムとサラの息子イサク、ザカリアとエリザベトの息子、洗礼者ヨハネ、そしてもちろんヨセフとマリアの息子である主イエス・キリストです。そういう意味でこのサムソンは約束の子、神に選ばれた子でした。


 やがて、彼はこの御使いのお告げ通り、生まれます。そして彼には主の御霊が満ちていました。しかし、彼が何かその御霊で良い事をしたかというとそうでもありません。ある時、彼が道を歩いていたのですが、獅子が襲いかかって来た時、御霊が彼に降り注いだので彼はその獅子を引き裂きました。確かに獅子を引き裂いたのは凄い事なのですが、なにが有益なのかわかりません。


 その頃、イスラエルの民は主なる神に対して悪とされることをしたので、主なる神は彼らをペリシテ人の支配下に40年間置くようにされました。イスラエルの民はペリシテ人に支配されていたのです。にもかかわらず、このサムソンはあるペリシテ人の女性を嫁にすると言い出し、彼の両親を困らせました。また、サムソンは結婚式の宴会の席で、その宴会の席に集まったペリシテ人達になぞなぞをかけました。7日間宴会は続くのですが、その間もし彼らが答えられたら、麻の衣三十着、着替えの衣三十着をあげようと言い、逆にもし彼らが答えられなかったら彼らからもらうと言い放つ始末でした。そのなぞなぞがわからなかった彼らはサムソンの妻を脅し、サムソンの妻は途方にくれ、サムソンに泣いて頼んだので、彼はその答えを嫁に教え、彼らは正解を答えました。しかし、当然の事ながら、サムソンは嫁が彼らに教えたから、彼らが答えることが出来たということを知っていました。その時、御霊が彼に降り注いだので、彼らを殺しました。


 その後、彼は嫁のところに行くが、彼女の父がサムソンが嫁を嫌っているものと思い、彼女をサムソンの友人の所に嫁がせたと言いました。怒ったサムソンはペリシテ人の麦畑を焼きました。ペリシテ人達は怒り、嫁の父がサムソンから嫁を取り上げ、その友人に与えたからサムソンがこのような事をしたと知ると、その嫁と父親を焼き殺しました。それに対してサムソンは怒り、彼らを打ちのめし始めたということです。その数千人以上ということでした。

確かに、支配しているペリシテ人をやっつけるという意味においては彼は士師と言えますが、なんというか彼の暴力は彼の気の向くままに振るわれた感じがいたします。


 もちろん、そのような状況であっても、聖書は常にこう言っているのです。「主の霊が彼に降り」

 当然、主なる神の御心でなければ、主の御霊はサムソンには降り注ぎません。ということは私達の基準で言えば、サムソンの行動は単なる暴力であったとしても、主なる神の目線で言えば、御心にかなったもので主のご計画の一部であるということだと思うのです。

しかし、サムソンも最後ペリシテ人に捕まってしまいます。しかも捕まり方があまりにもひどいものでした。彼はデリラという遊女のところに身を寄せるのですが、彼女はペリシテ人からもしサムソンの怪力の秘密を探り出せば、銀千百枚を与えると言われました。そして彼女はなんとかサムソンの怪力の秘密を聞き出そうとしましたが、なかなか本当の事を教えてはもらえず、嘘を教えられ、失敗しました。最後にサムソンは本当のこと、すなわち頭にかみそりをあてれば、怪力は失われる事を彼女に話してしまいます。そして、彼女はサムソンのあたまにカミソリをあて、怪力を失ったサムソンはあっけなく、ペリシテ人に捕らえられ、牢屋に入れられました。

 しかし、牢屋に入れられていた間に彼の髪は伸びていました。つまり、神の力も回復していたということでした。そして、彼がペリシテ人に余興の見世物で引き立てられた時、彼は最後の力を振り絞り、建物の柱に手をかけ、建物を壊し、彼の命もろともペリシテ人に対して復讐をしました。

先程も申し上げましたが、彼が生まれてからの彼の行動はあまり褒められたものではないと思います。イスラエルの民をペリシテ人の支配から解放するために武力は必要ですが、何か彼の個人的な感情や事情で武力や暴力を奮っていた気がします。しかし、そんな彼を生まれる前から聖別し、その時、その時に、御霊を降り注がれたのは主なる神です。私達もまた彼ほどではないにしても欠けがある人間なのです。しかし、欠けがある、欠けがないという事は関係なく神の選びというものがあるのです。それは他の士師の方々の話や士師以外の神に選ばれた者たちの話を読んでいただければお分かりかと思います。

しかし、サムソンはやはり、自分の弱点をこの女性に教えてしまった事は神を軽んじた行為であったと思うのです。神の御使いからの教えを軽んじたせいで、彼はひどい目にあうのです。

しかし、彼の最後の言葉「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。…」(士師記16章28節)はこのサムソンの事が書かれた箇所において、最初で最後の彼の主なる神に対しての祈りでした。そこにこそ彼の信仰が凝縮しているのだと思います。

先程申し上げたように、欠けがあるなしに関わらず神は私達を選んでくれます。そして、このサムソンの最後の言葉に彼の信仰の凝縮が見られます。しかし、惜しむらくは彼がもう少し、早くこのような信仰を持てていればと思ってしまいます。私達は神に選ばれただけで慢心することなく、このようになる前に、キリストに倣う信仰を持つことが出来るよう日々祈っていきたいと思うのです。

Comments


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
bottom of page