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「健康な麦となる」

2021年11月21日 収穫感謝記念日礼拝

説教題:「健康な麦となる」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 13章24-30節(25㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は収穫感謝記念日です。収穫感謝記念日というものはキリスト者であってもご存知のない方もいらっしゃるかと思います。この記念日はイギリスから宗教の自由を求めアメリカに移住したキリスト者の一派である清教徒、ピューリタンが始めたものです。彼らは本国イギリスで迫害を受け、アメリカに移住したのですが、そこでの生活は過酷を極め、多くの人々が亡くなりました。また、原住民のネイティブ・アメリカンとの争いもあり、日々不安の中で暮らしておりました。しかし、ある時、原住民がトウモロコシなどの作物を彼らピューリタンに与え、またそれらの作物の作り方も彼らに教えたので、彼らは飢えをしのぎ、生き延びたのです。彼らはこのことを神に感謝し、それを記念としたのが収穫感謝日の始まりです。それが全米に広がり、そしてこの遠く離れた日本の教会でも祝うことが出来るのは感慨深いものがあります。そして、今を生きる私たち日本人にとってなかなか実感がわかないのも事実です。


 なぜなら、私たちにとってその出来事は、昔の事、しかも外国で起こった事だからです。そして、もちろん、日本にも隠れたところに貧困がありますが、日本は飽食の状態だと言われています。食物を作りすぎて、捨てているフードロスという言葉もあり、その捨てられる食料を有効活用しようとする試みがなされているとも聞いています。ですが、やはり私たちは全体的にみて、食に恵まれていますし、だからこそ、このピューリタンたちの神様に心から感謝する気持ちはわからないかもしれません。ただ想像するだけです。週報の一番後ろに書かれている主の祈りにはこのように書かれている箇所があります。「我らの日用の糧を今日も与え給え。」主の祈りとはこれは主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時、弟子たちの求めに応じて教えた祈りです。主イエス、弟子たち、そしてさらに主イエスを取り巻いていた人々は裕福でなかったことは容易に想像できます。ですから、「我らの日用の糧を今日も与え給え。」という祈りは本当に切実なものであったに違いありません。その切実さが分かるのは同じ状態であったピューリタンだけだと考えます。もちろん、私たちは彼らを取り巻いた状態は想像するしかできないのですが、それでも、日々私たちに糧を与えてくださる神に感謝しております。普段、そういうことを考えず日々過ごしている私たちに、この収穫感謝記念日というものは考える機会を与える素晴らしい日です。この事を感謝すると同時に私たちに糧を与えてくださる神様に感謝できるよう、私たちの心を保っていただけるように祈っております。


 さて、私たちは神様から食物という実際の糧を頂いているだけでなく、神の言葉という霊的な糧を頂いています。食物は私たちの血、肉、そして骨を作り、私達の体を成長させ、維持していくために必要なものですが、神の言葉は私たちの信仰や霊を成長させ、維持していくために必要なものです。

主イエスが荒れ野での四十日間の断食後、誘惑する者が「石がパンになるよう命じたらどうだ。」と主イエスを誘惑しますが、主イエスはなんとお答えになられたでしょうか?主イエスは申命記8章3節の言葉を引用してこのようにお答えになられました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)ですから、私たちに実際の糧を与えると同時に霊的な糧をお与えになられる神に感謝しなければいけないのです。


 本日は麦の話です。ある人が良い種を畑に蒔いたが人々が眠っている間に敵が来て毒麦を撒き、芽が出て、実ってみると、毒麦も出てきたと本日の聖書箇所マタイによる福音書13章24節から26節にあります。もちろん、これは喩えです。畑とは私たちが住んでいるこの世界だと思います。そして、私たちは良い種です。そして、敵とは悪魔であり、毒麦の種、つまり、この世に悪い影響を与える人たちです。良い種である私たちも、また毒麦の種であるこの世に悪い影響を与える人物たちも刈り入れの時まで成長させ、成長した麦である私たちは天の御国である倉に入れられ、毒麦であるこの世に悪い影響を与える人物たちは焼かれる、つまり処罰されるということです。

 

 ある意味単純といえば、単純です。善人は天国に行き、悪人は裁きを受け、地獄行きということです。ですが、事はそう単純ではないのです。確かに良い種というのは私たちキリスト者であろうと思うのです。しかし、もし私たちが霊的にも信仰的にも成長しなかったらどうでしょうか?私たちは神に御言葉によって成長することを期待されています。僕達が麦に混じって毒麦が生えてきたことを主人に報告した時、主人は「両方が『成長するまで』そのままにしておきなさい。」と僕達に命じました。それは毒麦を抜こうとする時、誤って健康な麦も抜いてしまう可能性があるからです。そうだとするならば、たとえ健康な麦になる予定の種から出たものであったとしても、健康な麦に成長しなければ、打ち捨てられることもあると思うのです。いや、もしかすると健康な麦に成長しないだけでなく、良い種、健康な麦に成長するはずだったものが毒麦になって成長することだってあり得るのです。この世は悪であり、様々な誘惑があるのですから。ですから、私たちは成長不良で打ち捨てられないよう、毒麦として焼かれないように、健康な麦として成長するよう神に期待されているのです。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」とは山上の説教で主イエスが語られた言葉です。(マタイによる福音書5章13節)


 私たちは外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる塩気のない塩として生まれてきたのではありません。または成長不良で投げ捨てられ、もしくは焼かれるために生まれてきた毒麦ではないのです。しかし、健康な麦として育たなければ、その様になってしまうのです。

毒麦の前の喩えを見てください。マタイによる福音書13章2節から9節に書かれている「種を蒔く人のたとえ」です。種を蒔く人が種を撒きに行ったが、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまい、別の種は石だらけの土の少ない場所に落ちたのだが、土が浅いので、すぐ芽を出したが、日が出ると根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ちて、茨が伸びてそれをふさいでしまったということです。しかし、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、百倍、六十倍、三十倍にもなったという喩えです。

 

 主イエスはこの喩えを同じ章の18節から23節でこのように説明しています。道端に落ち、鳥が来て食べてしまった種とは御言葉を聞いても悟ることができず、悪い者が来て、その御言葉を奪い取られてしまう者です。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れるが、自分の中に根がないので、艱難や迫害によって、その御言葉を諦めてしまう人たちです。茨に蒔かれたものとは世の思い煩いや富の誘惑によって御言葉をふさいで、実らない人です。そして、良い土地に蒔かれたものは御言葉を聞いて悟るものであり、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。

 

 私たちは神の御言葉によって霊的に、信仰的に成長することを神に期待されているのです。私たちは御言葉によって養われることを期待されているのです。しかし、私達の悟りのなさ、艱難、迫害、思い煩いや、誘惑によって霊的にも、信仰的にも成長が止まってしまい、実際に御言葉によって養われていないことが多くあるのです。私たちはどうでしょうか?主イエスが挙げた御言葉を聞くが、成長せず、御言葉に養われていない人々の例に当てはまってはいないでしょうか?御言葉を悟ることができず、鳥に食べられてはいませんか?

自分に根がなく、しばらく続いても艱難や迫害のためつまずいてはいないでしょうか?世の中の思い煩いや誘惑で御言葉を台無しにしてはいませんか?

それとも私たちは良い土地に蒔かれ百倍、六十倍、三十倍に実を結んでいますか?もし、私たちが主イエスが仰られたように、御言葉に養われず、霊的にも信仰的にも成長が止まってしまっているのであれば、かなりもったいないことを私たちはしているのです。私たちは何のために救われたのでしょうか?

私たちは主イエス・キリストの十字架によって罪を贖われたのです。そして、私たちは生まれ変わったのです。新しく生まれたのです。何のために新しく生まれたのでしょうか?このように御言葉を鳥に食べられたり、太陽に焼かれたり、茨によって成長を妨げられたりするためでしょうか?成長不良で停滞し、毒麦となり、焼かれるためでしょうか?

そうではなく、私たちが主イエスの十字架によって罪を贖われて、新生したのは霊的にも信仰的にも成長するため、健康な麦として、百倍、六十倍、三十倍にも成長するためです。そのためにはどうしたら良いでしょうか?

私は祈ることだと思います。もちろん、聖書を読み、説教を聞き、御言葉に慣れ親しむことは大切です。しかし、主イエスご自身が言われたように、御言葉がその人の内に根ざさないことがあるのです。そのような時、祈るのです。悟りが自分の内にないのであれば、悟りを与えてくださいと祈るのです。

自分の内に根がなく、艱難や迫害にすぐにつまずいてしまうのであれば、根を与え、艱難や迫害に負けない信仰と忍耐をお与えくださいと神に祈るのです。この世の思い煩いや富の誘惑に惑わされていれば、その思い煩いや富の誘惑を取り除いてくださいと神に祈るのです。聖霊が働かれるよう神に祈るのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」とヤコブの手紙1章2節から8節に書かれています。

私たちはこのヤコブの手紙に書かれているような信仰を持った祈りをして、日々成長していこうではありませんか、健康な麦のように。

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