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「儀式と信仰」

2023年7月2日 聖霊降臨節第6主日

説教題:「儀式と信仰」

聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 1章11節-17節(1061㌻)​

   新約聖書 ルカによる福音書 22章14節-20節(153㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 儀式というと私達キリスト者は礼拝の事を思い浮かべると思います。

それ以外の儀式というと他の宗教的儀式、例えばお墓参りをする、新年の挨拶のために神社に行くといったところでしょうか。また宗教的儀式ではないのですが、小学校、中学校、高等学校、そして大学での入学式や卒業式、会社での入社式もあります。また成人式もあります。挙げればこのように沢山出てきます。キリスト教の礼拝以外のこれらの儀式というものは日本人にとって馴染みのある儀式です。つまり日本人の生活に溶け込んでいるということです。今私達が行っているキリスト教の礼拝がいつかこのように日本人の生活に溶け込んで欲しいと願っています。


 ですが、儀式が溶け込むということと本当に儀式の意味を理解し、信仰して、実践することには大きな違いがあります。果たしてどれほどの日本人がこれらの儀式の意味を理解して、信仰して実践しているでしょうか?

ユダヤ教にも様々な儀式があります。以前、説教でもお話しましたが、過越の祭り、仮庵の祭りなどです。これらは出エジプト記、レビ記、申命記などに書かれていますが、主がモーセをリーダーとしてエジプトを脱出させる時、させた後に制定されたものです。そして、彼らはその祭りの意味というものを理解しています。それは子孫に代々その祭りの意味を教えてきたからです。例えば過越の祭りに関しての記述に次のようなものがあります。出エジプト記12章の26節から27節です。「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と…」

このように今でもイスラエルの社会ではこのような儀式が守られ、人々はその伝統を受け継ぐと同時にその意味を理解しています。

とても素晴らしいことです。ただなんとなく伝統だから、習慣だから行っているというのとは大違いです。

しかし、イスラエルの歴史の中で主に反逆し、儀式を行わなかったり、行ったとしても間違ったやり方で行ったり、主の御心にかなわないで行ったりしていた時期があります。今日の最初の聖書箇所はその事を表しています。


 イザヤ書1章11節です。「お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄羊、子羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」

まず、これはイザヤ書つまりイザヤという預言者の書です。今まで説教で話してきたのですが、預言者が主によって国に遣わされた時代というのは、たいていその国、だいたいユダ王国かイスラエル王国などですが、神に逆らっていたということです。そして預言者は主の御言葉を預かり、厳しい言葉でその国を批判し、主に立ち返らせようとするのですが、その国は主に逆らい続けるという事を頭に入れておいてほしいのです。今回もまた批判です。


 11節を見てみますと、人々は儀式をしているのですが、主はそれを喜んではいません。雄羊を焼き、脂肪を献げたり、雄牛、小羊、雄山羊の血を献げたりするのはレビ記などに書かれていますので、それに従って行っているはずなのに、主はなぜ喜ばなかったのでしょうか?

しかも、前の節10節ではこの儀式を行っている人々をソドムの支配者、ゴモラの民とまで呼んでいます。このイスラエルの民は主によって選ばれた人々でした。その人々がそのような酷い名前で呼ばれるとは不思議です。


 ですが、やはり主がこの民に憤られたのには理由があります。

まず彼らは自分たちの儀式であり、献げ物もまた主のためではなく、自分たちのためであると主は考えていました。12節にはこう書かれています。

「こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが 誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。」

主の前にかしこまり、主を崇めるために来ることと、主の神殿を踏み荒らすことは全く違います。13節から15節でも主は彼らの儀式への批判を続けます。そして、15節の終わりから17節で主は彼らの儀式と彼ら自身を喜ばないさらなる具体的な理由を示されます。

それは彼らの手が血にまみれているから、彼らが悪を行っているからです。そしてどうすればいいのかというと善を行いなさいということです。具体的に言うと「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(17節)ということです。

 15節の終わりから17節を見てみますと、何か人々の心の問題、心の悪という曖昧なものから、より具体的かつ社会的な問題に主の批判の対象がシフトしているように見えます。しかし、結局のところ人の心の問題、心の悪がやがて具体的なそして社会的な問題や社会悪に発展していくということではないでしょうか。主イエスは言われました。

「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」(マタイによる福音書15章18節から19節)

ですから、イザヤ書に戻ると17節で裁きをどこまでも実行して搾取するものを懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。」で主がお命じになられているのは彼らが真逆のことをしていたということです。彼らが悪を行っていたということです。この彼らの悪の行動はどこから来ているのかというと主イエスが言われたように彼らの心の悪いところから来ているわけです。ですから、彼らはこの心の悪いところを善いように変えてもらわなければいけないのです。そうすれば、行動が変わるのです。信仰の実というのをご存知でしょうか?人が主によって変えられ、信仰を持ち、信仰が成長すると、それが行動に現れてくるということです。これが信仰の実です。このイザヤの箇所では人々が信仰もなく、信仰の実もなく、ただ虚しく主の所に来て主の庭を踏み荒らしているのです。私達はこの事を避けなければなりません。そのためには私達は自分自身を吟味しなければなりません。

パウロは聖餐式に関してこのように言っています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことを わきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Iコリント11章27節から29節)

 だからこそ私達は儀式に臨むにあたって自分自身を吟味し、ふさわしくないようであれば、悔い改め、ふさわしいように主に変えていただくのです。ダビデ王がバト・シェバと通じたので、預言者ナタンがダビデ王の元に来て、主による裁きをダビデ王に伝えました。それに対するダビデ王の詩が詩篇51章です。18節から19節にかけてお読みいたします。「もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」


 儀式が悪いのではないのです、ですが本日の第一の聖書箇所イザヤ書で主が批判しているように、心が伴っていない、信仰が伴っていない、ましてや悪を心に思い、その思いによって行動しつつ、主の儀式に参加することが許されないということです。逆に言えば、自分の心にある悪を自覚し、そのことに対して悔いる心を持ち、主に助けを求めるのであれば、主はそれを赦され、彼は儀式に参加することが出来るのです。


 本日の第2の聖書箇所ルカによる福音書22章です。19節で主は

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と仰いました。

20節で「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と仰いました。

これらは主イエスが制定された儀式です。もちろん、私達はこれまでイザヤ書で主が批判し、非難している儀式に参加している人々を見てきましたし、パウロの批判も見てきました。しかし、儀式に参加しないということは私達は主イエスと関係のない者となってしまいますし、また主がお定めになった事を否定することになってしまうからです。ですから、私達は主を畏れ敬いつつ、主の儀式に参加するのです。

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