「先人たちを思いつつ、目標を目指して走る」
2021年11月7日 降誕前第7主日礼拝 / 召天者記念日礼拝
説教題:「先人たちを思いつつ、目標を目指して走る」
聖書 : 新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章1-3節(416㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
昨年、私達浦和教会は西山姉妹を偲ぶ会を礼拝後、行ないました。しかし、今年は召天者記念礼拝を皆様と共に行います。そして私はこの礼拝に感慨深さを感じます。なぜなら、私が昨年、本教会に派遣されてから初めての召天者記念礼拝だからです。ご存じの方もおられるかと思いますが、召天者記念礼拝とはその教会の教会員などの教会に関係のある方で亡くなられた方々を思いつつ、行う礼拝のことです。カトリック教会では11月1日をall saints day(オール・セインツデイ)とし、教会の聖人達を覚え、礼拝を行いますが、プロテスタント教会では先に昇天されたその教会の信仰の先人たちを覚え、礼拝を行います。また、プロテスタントでは11月の最初の日曜日またはイースターにこの礼拝を行います。もちろん、それ以外の日曜日に召天者記念礼拝を行う教会もあります。私たち浦和教会では、以前イースターに召天者記念礼拝を行っていたのですが、昨年11月の初めの日曜日にこの礼拝を行なうようにしようということを決め、本日このように召天者記念礼拝を行っております。
さて、本日の聖書箇所です。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」とヘブライ人への手紙12章1節にあります。まず、「こういうわけで、」と書かれています。これはこの前、つまり前章11章に書かれていることを受けてということです。では、11章にはどのような事が書かれていたのでしょうか?旧約聖書に登場する信仰に生きた人々の生き様が書かれていました。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルといった人物の事です。彼らがいかに信仰に生き、そのために神に認められたかが具体的に書かれていたのです。そして、信仰とは何かということ、つまり信仰の本質を説明しています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とヘブライ人への手紙11章1節から3節に書かれています。
前の章は旧約聖書時代に神に認められた信仰に生きた人々のいわば証です。だからこそ、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、」と、この手紙を書いた人物は言っているのです。証はとても大切です。山路先生が浦和教会で伝道・牧会をなさっていた時、教会員の方々の証し集が作られました。私も証し集を読ませていただきました。とてもすばらしい証し集でした。そして、昨年の西山姉の召天記念会では証し集に載っている西山姉の証が読まれました。また、出席された西山姉の息子さん、そして西山姉と親しかった教会員の方々に故人の思い出を語っていただきました。証し集に載っている証も西山姉の証ですが、これらすべても西山姉の証なのです。ヘブライ人への手紙の著者が11章で旧約聖書の時代に信仰に生き、神に認められた人々の事を書きましたが、それと同じなのです。そして、この浦和教会には西山姉の他にも信仰に生き、神に認められ、天に召された先人たちがいらっしゃいます。そのような人たちを思うことは大切な事なのではないでしょうか?それはただ単に礼儀的な意味というわけではないのです。
本日の聖書箇所ヘブライ人への手紙12章1節の後半部分にこう書かれています。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」
私たちキリスト者は主イエスを信じる信仰によって救われました。
それは素晴らしい事であるのですが、この手紙の著者はそれで満足していないのです。もし満足していれば、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」などと言う必要はないのです。「救われて感謝です。」と言って、その場に留まっていればよいのです。
そうではなく、私たちキリスト者は「競争を忍耐強く走りぬくこと」を期待されているのです。しかしその「競争」には「重荷」や「罪」といった障害があるのです。障害物競走というのをご覧になったことはありますか?私は今年のオリンピックのトラック競技で見ました。ハードルや水たまりなどといった 障害物がオリンピックの選手達が走るトラックのレーンに置かれ、選手達が走るのを見ていましたが、障害がなくても大変なのに、障害があるので、さらに、大変なのだなと思いました。私たちの信仰の成長とはこの障害物競走のようなものではないでしょうか?道は平坦ではなく、誘惑などの様々な「重荷」や「罪」といった障害があるのです。それらの「重荷」や「罪」をかなぐり捨てる力はどこから湧いて出てくるのでしょうか。それは信仰に生きた私たちの先人たちを思い起こすことによってです。そのことによって私たちの信仰を奮いたたせるのです。
よく、この召天者記念礼拝は日本のお彼岸、お墓参りと比較されます。お彼岸では亡くなられた先祖を覚え、供養するために行います。しかし、キリスト教の召天者記念礼拝はそれだけではないのです。亡くなられた、召天された先人たちを思うことだけではないのです。過去を想起するだけでなく、現在の私たちを見つめ直し、未来に思いを馳せるのです。過去に生きた先人たちの信仰を受け継ぎ、現在の私達の信仰を奮いたたせ、未来に向けて歩んでいくのです。本日の礼拝では歌いませんが、新聖歌468番にはこのような歌詞があります。「やがて天にて喜び楽しまん。君にまみえて勝ち歌を歌わん。」
キリスト教は未来志向なのです。
私たちは競争に参加していると言いましたが、何を目標としているのでしょうか?主イエス・キリストです。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と本日の聖書箇所2節に書かれています。もちろん、私たちは主イエスになることは出来ません。しかし、私たちは主イエスのようになる事そして主イエスを目標として走ることは出来ます。もちろん、この競争において、信仰の競争と言ってもいいのですが、後退もあります。私たちにも弱さがあるのです。そして、主イエスは弱さを理解できないお方ではないのです。
なぜなら、主イエスご自身は神の御子であるにも関わらず、人の身になられ、人の苦しみをお受けになったのですから。
私たちはこの信仰の競争中に自分たち自身の弱さを覚える時、何をしたら良いでしょうか?信仰に生きた先人たちを思うこと、想起することです。旧約聖書に出てくる信仰に生きた先人たちを想起するのも良いでしょう。また浦和教会で先人たちを想起するのも良いでしょう。しかし、これら先人たちを想起するだけでなく、私達の主イエス・キリストを想起することを忘れてはいけません。ヘブライ書の著者自身がこのように言っています。「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の王座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ人への手紙12章2から3節)
そして、主イエスは目標でもあります。聖書に出てくる信仰に生きた人々、そして浦和教会で召天された人々は私たちの信仰の先人であり、助け手です。
私たちがこの信仰のレースに疲れた時、この人々を思い起こしてください。
それは本日でなくても、かまいません。私たちが弱さを感じる時、彼らの事を思い起こしてください。彼らは完全ではありませんでした。アブラハム、モーセといったいわば信仰に生きた人々であっても、人間的に言えば、欠陥はありました。モーセは最初に神に召命を受けた時、何度も拒みました。しかし、神はこのような欠陥だらけの人々を召命されたのです。そして、彼らはそのような欠陥があるにもかかわらず、彼らの信仰は認められ、神に喜ばれたのです。彼らが私たちを支えている。私たちは彼らの信仰を受け継いでいるのです。そして何よりも主イエスが私たちを支え、神と私たちとの仲介者として存在しているのです。そして、私たちは主イエスを目標に走っているのです。パウロも私たちは主イエスという確固たる目標を持って走るべきである、そして競技をすべきであると述べています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とフィリピの信徒への手紙3章12節から14節にあります。そして「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とIコリントの信徒への手紙9章24節から26節にあります。ですから、私たちもこの信仰のレースで先人たちを思いつつ、朽ちない冠である主イエスという目標に向かって走ろうではありませんか。
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