「先駆者」
2023年12月17日 アドベント第3主日
説教題:「先駆者」
聖書 : マラキ書 3章19節-24節(1501㌻)
ヨハネによる福音書 1章19節-28節(163㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は第3アドベント主日礼拝ですが、いよいよ最後の第4アドベント、クリスマス礼拝が迫ってきました。
主イエス・キリストを迎える準備を今週1週間で行いたいと思います。本日の最初の聖書箇所はマラキ書です。これは預言書の中の一つで、旧約聖書の最後の書になります。預言者マラキがその筆者であると言われています。
マラキとはヘブライ語で「わたしの使者」という意味です。もちろん、この「わたし」を意味するのが「主」であることは言うまでもないことです。
旧約聖書時代の預言者の役割とは何でしょうか?もう何度も言ってきたのですが、主から離れてしまったイスラエルの民、ユダの民を主に立ち返らせることですね。しかし、彼らは立ち返ることはせず、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、彼らはバビロンに捕囚として連れて行かれました。
バビロン捕囚です。そこでしばらくの間、生活をするのですが、やがてバビロンはペルシャに滅ぼされ、ペルシャのキュロス王によって解放され、彼らは故郷に戻ることが出来ました。
さてこの預言者マラキが活躍したのは民がイスラエルに帰還してからということになります。たぶん、皆さんはこの様に思ったのではないでしょうか?イスラエル王国もユダ王国も主に逆らい続けてきた。主は立ち返るよう主の預言者を送られたが、人々は彼らにそして主に逆らい続けた。そして両国とも滅ぼされ、ユダ王国の民はバビロン捕囚となったが、故郷に帰還を許された。もうこれでおしまい。もう預言者を送られる必要がないではないか。
しかしそうではないのですね。主は主の民をほうっておくことはしないのです。故郷に帰ってきた彼らは主に立ち返ったでしょうか?いいえ、彼らは主に反抗的でした。
彼らは主に反抗し、主から離れたせいで、あのような経験をしたにもかかわらず、いまだに主に反抗し続けたのです。なぜでしょうか?それは現実の状況を人々は見るわけです。彼らはペルシャの支配下にあったわけです。それが彼らの不満なのです。
マラキ書では主と民とが対話形式で論争し、その中でイスラエルの民の反抗と罪があぶり出されます。
1章2節から6節までで主はイスラエルの民を愛してきたと仰っているにも関わらず、なんと彼らはどのように愛してきたのかという口答えをするわけです。それに対してイスラエル人の先祖であるヤコブを愛し、選んで、ヤコブの兄であるエサウを憎んで、愛さなかったと主はお答えになられました。現実としてヤコブの子孫であるイスラエルの民もエサウの子孫であるエドムもバビロンに滅ぼされるのですが、イスラエルの民は故郷に帰ることが出来て、街が再建され、神殿も再建されました。一方でエドムの都市は酷い有様だということです。しかし、ペルシャに支配されている現状を嘆き、主に反抗的態度を取っているのです。私達もまたそのようなことがあります。現状なかなかうまく行かないこと、不満があります。
ですが、私達は恵まれていることがないでしょうか?
マラキ書1章6節から14節は人々が傷のある、病気のある動物を主に奉納物として捧げて、主を軽んじていることです。彼らはどんな動物でも捧げれば良いという考えを持っていました。これは律法の規定にも反しますし、そもそも主を敬っていればそんな事はしません。其の事を主は指摘されました。
マラキ書2章1節から9節では祭司の罪を指摘しています。祭司がそのような民の行為、つまり怪我や病気などの動物を献げ物として持ってくることを許し、偽りを教え、主を畏れなかったからです。
2章10節から16節ではイスラエルの民が異教の神を信じる民と結婚し、その結婚をするため、イスラエルの民の妻と離婚するということが書かれています。離婚をするということ、そして異教の神を信じる民と結婚し、偶像礼拝をするということが罪であることを指摘しているのです。
さらに民たちは「悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか 主は彼らを喜ばれるとか 裁きの神はどこにおられるのか」と言っていたということが17節で書かれている。これは主を冒涜する言葉であることは明々白々であることはおわかりかと思います。実際、主をこれらの言葉によって疲れさせたと仰っています。
このような言葉は3章14節から15節にかけても書かれている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試みても罰を免れているからだ。」
つまり主が選ばれた民が上から下までだめになっていたということです。こういう状況の中で主はご計画をお立てになられました。すなわち、二人の人物を派遣し、主と民との関係を元通りの良好な物にするということです。マラキ書3章1節から5節です。1節に出てくる使者とは誰でしょうか?これはバプテスマのヨハネです。それは「彼はわが前に道を備える」という表現から明らかです。
もう一人の人物は主イエス・キリストです。
「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。」と続きます。
さて、本日の聖書箇所です。この主の日というのは主イエス・キリストの再臨ということになると思います。
主イエスによる裁きの日ですね。そしてここでもバプテスマのヨハネの事が書かれています。23節から24節です。
「預言者エリヤ、…父の心を子に 子の心を父に向けさせる。」とありますね。
この文言は新約聖書のルカによる福音書にも書かれています。バプテスマのヨハネを表す文言です。
「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」とルカによる福音書1章17節で主の天使ガブリエルがヨハネの父ザカリアにこれから生まれてくるヨハネの事を預言しました。
このように主は選ばれた民イスラエルがこれほどまでに主に逆らい続けたにも関わらず、見捨てずにこの民を救うご計画を立てられました。この民のみならず世界の人々を救うご計画を立てられたのです。
しかし、マラキ書に出てくるイスラエルの人々の態度は彼ら独特のものでしょうか?私達にもあるのではないでしょうか?悪いことをしている人々が何にもおとがめがないじゃないか。最近の話題で言えば、政治家が裏金などをもらってもおとがめなしじゃないか。一般人が収支報告書に記載しなければ脱税で逮捕されるのに、修正申告で済まされる。国民は増税、物価高で苦しんでいるのにとんでもない。そのくせ、重箱のすみをつつくなんてけしからんといった反論をする。だったら自分も政治家になってうまい汁をすってやろうじゃないかということです。
こういった中でも主はご計画を立て、はじめにバプテスマのヨハネを、そして次に主イエスをお送りになられたのです。本日の第2の聖書箇所でバプテスマのヨハネは自分が何者であるか何のために洗礼を授けているのかを十分わかっていることを証明しています。わかっていないのはファリサイ派の祭司、レビ人たちだけだったということです。だからこそ彼らは尋ねたわけです。彼らはバプテスマのヨハネに預言者エリヤか、あの預言者かと聞きました。ヨハネが預言者イザヤの言葉を引用し、自身を「主の道をまっすぐにせよ」という荒れ野で叫ぶ声と表現すると何でメシアでもない、エリヤでもない、あの預言者でもないのに洗礼を授けるのかと聞きました。
これは彼らがよく言うセリフです。彼らは常に権威、地上の権威を誇示します。「なんの権威でこのようなことをするのですか?」ということです。主イエスが神殿の境内で福音を告げられていたとき、祭司長、律法学者たち、長老たちが近づいてきて、主イエスに「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と質問しましたが、主イエスは逆にバプテスマのヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか、とご質問されました。彼らはわからないと答えました。なぜなら、もし天からだと答えたら、なんでそれではヨハネを信じなかったのかと言われるし、人からだと言えば民衆はヨハネを預言者だと信じているから彼らを殺すだろうと考えたからです。
このような彼らの権威思考、狡猾さもまた人の罪です。
そのような罪の世界の中で私達は生きているのであり、私達も容易にそれに取り込まれてしまうのです。
ですが最初にバプテスマのヨハネを送り、その後主イエスが来られ、地上で福音・伝道と奇跡を行い十字架におかかりになられ、私達の罪を贖い、3日後に復活をされ、天に昇られ、栄光を受けられたことを私達は信じており、そのことによって私達は守られているのです。
そして主イエスが再臨するという主のご計画は旧約聖書の短い預言書ではありますが、最後の書、そして新約聖書に橋を架ける書によって記されています。この主のご計画は必ずなるのです。
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