「光の子として歩む」
2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝
説教題:「光の子として歩む」
聖書 : 新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章6−14節 (357-358㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
使徒パウロはエフェソの信徒に対してこのように言いました。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。」エフェソの信徒への手紙5章6節です。「言葉」は聖書で大切にされるべき事です。創世記1章の3節から31節には世界が神の「言葉」によって創造されたということが書かれています。そしてヨハネによる福音書1章1節から3節でもこの創世記の事が端的に書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」そして、この言は私達の救い主である主イエス・キリストを表しています。
さらに私達は聖書に書かれている「言葉」を御言葉と呼んでいますし、今日の週報にも本日の聖句が載っていますし、今週の聖書日課にも様々な聖書箇所が載っています。「言葉」特に「神の言葉」、「聖句」がいかに私達キリスト者にとって大切かということを私達は知っているのです。
また、「言葉」には「御言葉」以外のものもありますが、この御言葉以外の「言葉」であっても人をポジティブにしたり、慰めたりするものも多くあります。しかし、それとは逆に人を傷つける、中傷する言葉も数多く存在します。特に最近のインターネット、ソーシャルメディアの発達によって、いままで人を中傷する発言がその発言をした人の周りだけで完結していたのに、それが全世界的に拡散してしまうようになってしまったことは大変な事だと考えています。
さて使徒パウロがここで言っている「むなしい言葉」とはどういう言葉でしょうか?わたしが少し前に話した誹謗中傷する言葉であったり、悪い言葉つまり英語で言えばカーシングワード(直訳すれば呪いの言葉)であったり、人を貶める(おとしめる)噂話(うわさばなし)のたぐいの言葉だと思います。このような言葉に惑わされてはいけないと使徒パウロは言っています。そうでないと神の怒りが下ると言っているのです。つまり、私達がこれらの言葉に惑わされ、これらの言葉を常に発している仲間に入ってしまうと神の怒りを買ってしまうということです。わたし自身、たまにいらいらしてしまい、これらのカーシングワードを口に出してしまうことがあるので、反省し、悔い改めていかなければいけないと思っております。
しかし、パウロはただ単に神の怒りを買うのが怖いから、神から 罰を受けるのが怖いからという理由だけでエフェソの信徒に「むなしい言葉に惑わされてはいけない」と言っているのではありません。もし、私達が誰かから罰をうけるのが怖いからその人に従うというのであれば、言葉は悪いかもしれませんが、私達は奴隷と同じではないでしょうか?神は私達の創造者ではありますが、私達とそのような関係を望んでいらっしゃるでしょうか?
「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」とヤコブの手紙2章23節に書かれています。そして主イエスご自身が弟子たちにこう言われています。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」ヨハネによる福音書15章15節に書かれています。つまり神は私達を奴隷にしたいと望んでいるのではなく、主イエス・キリストを通して神の友として歩むことを望んでいるのです。使徒パウロが言われた言葉、エフェソの信徒への手紙5章8節を御覧ください。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」これは私達が主イエス・キリストによって贖(あがな)われたのだから、私達は光となっていて、喜んで光として歩みなさいと使徒パウロは言っているのではないでしょうか?
さらに、使徒パウロは「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」と9節から10節で言っています。最近よく聞かれる言葉にダイバーシティという言葉があります。英語で「多様性」という意味です。人種、宗教、価値観、ライフスタイル、障害を非難するのではなく、共生しようという考え方です。もちろん、昨今、私達が住んでいる地域にも外国出身の方々がいらっしゃいます。言葉も違えば、宗教も違う、価値観も違えば、ライフスタイルも違います。また、性的マイナリティの方々もいらっしゃいますから、そういう方々に対しての理解も必要です。しかし、それと同時に私達は使徒パウロが言っている言葉を吟味しなければいけないと思うのです。つまり、私達はこのダイバーシティーの時代にあって何が善で何が悪かを私達の中にある光に基づいて判断しなければならないのです。
このコロナ禍の中、東京オリンピックが開幕されましたが、このオリンピックに対しては賛美両論があり、運営の様々な不備が指摘されておりました。開会式の音楽を担当されていた方が学生時代にいじめをしていたこと、そして社会人になってからそれを雑誌の インタビューで自慢げに語っていたことを理由に辞任しました。過去にこの事は何度か取り沙汰されたらしいのですが、今回はオリンピック・パラリンピックという国家事業に携わることになったので、このような大々的な取り上げられ方をされたのだろうと推察されます。
たぶん、皆さんは誰にだって間違いはあるし、過去やんちゃをしていた人もいる。いじめと言ったって、たいしたことはないでしょう、過去のことだしと思われるかもしれません。それは、この事を報じたテレビを中心とするマスメディアが彼の行った具体的な内容を報道しなかったからだと思います。つまり「いじめという言葉」で曖昧にしてしまったからだと思うのです。なぜマスメディアが彼の具体的な行動を報道しなかったかという理由に関しては、彼の行動があまりにもひどすぎて、報道できなかったという事であろうと推察します。しかし、彼の具体的な行動を報道しなかった事によってその報道を見た人々が「彼のした事はたいしたことではない。」という思いを持ってしまったこともあると思います。実際、彼が26年前にある雑誌で彼が語った内容はいじめという言葉ですまされるものではありませんでした。暴行、傷害、拷問のたぐいのもので非人道的な行為でした。彼は学生時代にそのような行為を知的障害者の方々に対して行い、それを雑誌のインタビューで語っていたのです。そしてそのような人物が国家的事業であり、国際的な舞台でもある、オリンピック・パラリンピックに携わらせてよいのだろうかという話が持ち上がったのです。パラリンピックには障害を持たれている方々も参加されます。さらにオリンピック憲章の根本原則にはこう書かれています。
” 2 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。
3 オリンピズムの目標は、あらゆる場でスポーツを人間の調和のとれた発育に役立てることにある。またその目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。この趣意において、オリンピック・ムーブメントは単独または他組織の協力により、その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動に従事する。
6 オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。”
公益財団法人 日本オリンピック委員会 HPより
https://www.joc.or.jp/olympism/charter/konpon_gensoku.html
(一部抜粋)
この問題がマスメディアで取り上げられた時、この方を擁護する人々やこの方に反対する人々がありました。擁護する人々は昔のことでこの方を非難するのは良くないと言い、その非難こそがバッシングであり、いじめであると言われました。中には私達は聖人君子でしょうかという意見で彼を擁護する人もいました。この方の意見は私達も多少なりともすねに傷をもっているのだから彼を非難すべきでないという主張だと思います。
一方でこの方に反対する方々は彼の行った事はいじめと言うにはあまりにひどい行為であり、それを反省も謝罪もせず、大人になってもそれを自慢げに雑誌で語り、非難が激しくなってからSNSで反省文を載せるのであれば、彼をオリンピック・パラリンピックに携わらせるのは良くない。日本はこのような行為を容認する国だということを世界に発信してしまうことになると言っておりました。彼はこの問題が取り上げられた時、SNSで謝罪をしつつもその仕事をし続けようとし、オリンピックの実行委員会もそれを認めていましたが、最終的に辞任しました。
私達キリスト者はこの世で生きていく中で日々試されています。日々選択しています。そして何が正しくて、何が間違っているかを判断し、行動しています。では私達はキリスト者としてこの事をどう判断すべきでしょうか?確かに昔のことでいつまでも責めるべきではないかもしれません。さらに言えば、キリスト教の根本は赦し(ゆるし)です。そうであるならば、彼を赦すべきであり、非難すべきでないという事になります。しかし、話はそう単純ではないと思うのです。彼は過去、知的障害者に対して犯罪的行為をし、それを大人になって、雑誌インタビューで自慢げに話し、今まで反省をし、謝罪をする機会があったにもかかわらず、それをせず、事ここに至ってSNSで謝罪するが、仕事は続けたいと言っていました。
私達は私達が与えられた光でどのようにこの事を判断するべきでしょうか?私は彼が最終的に赦されるべきだと思いますが、今彼をオリンピック・パラリンピックに携わらせるのは違うと考えます。彼はやはり真摯にそのような行為を行った人々に対して謝罪し、悔い改めなければなりません。もちろん、その方々は受け入れないかもしれませんが。しかし、彼が悔い改めも謝罪もなしにそのまま生きて行くのを認めるのは9節から10節で使徒パウロが言うところの光によって善悪を判断することから大きく逸脱することではないでしょうか?彼を擁護する意見、すなわち「昔のことで彼を非難すべきでない」「それは新たないじめになる、彼を排除することこそいじめであり、彼を受け入れることこそ共生である」といった意見は一見すると正しく、聞こえがいいです。しかし私はこれらの意見は表面上正しくても、よくよく吟味するとパウロが言うところの「むなしい言葉」に思えてしまうのです。私達は価値観が多様化し、それを受け入れるべきというダイバーシティー社会になりつつある社会で生きています。しかし、それは極論すれば何をしても構わない、何をしても、罰せられない社会になってしまうという危険をはらんでいます。それはキリスト教のいうところの赦しではありません。そして、私達が生きている社会では、一見すると正しい意見が多くあります。そして、知らず知らずのうちに私達は惑わされ、仲間に引き入れられたりするのです。私達は惑わされてはいけないのです。私達は私達の中にある主イエス・キリストという光を持って正しく判断し、生きていかなければなりません。パウロが言うように「今は悪い時代」(エフェソの信徒への手紙5章16節)だからです。
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