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「共同体」

2023年6月11日 聖霊降臨節第3主日 花の日(子どもの日)

説教題:「共同体」

聖書 : 新約聖書 使徒言行録 4章32節-37節(220㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は花の日(子どもの日)礼拝です。この行事というのは1856年、アメリカマサチューセッツ州チェルシーでユニバーサル・チャーチ・オブ・アメリカの牧師チャールズ・H・レナードの提言で始まりました。彼は6月にある特定の日曜日に子供中心の集会を持ったり、特別礼拝を持ち、その中で献児式や幼児祝福式を行いました。

それ以降、アメリカの各地の会派の礼拝でこの時期に子供中心の礼拝が行われるようになったのです。

1866年もしくは1881年とも言われているのですが、アメリカのメソジスト教会で6月の第2日曜日を「子供の日」と定めました。教会員の方々は花を持ち寄って、礼拝後に警察署や様々な施設を訪問するようになりました。去年の説教でもお話したと思うのですが、私がナザレン教会に来る前にある単立の教会に通っていました。そこでは毎年この行事があったと記憶しています。

つまり、礼拝後に子どもたちが様々な施設に訪問する事ですね。

教会学校の先生達や大人の信者さんと一緒に子どもたちが近所の警察署、交番、消防署、老人ホームへ訪問し、お花を渡しました。老人ホームでは歌を歌いました。そして、入居者の方々には本当に喜んでいただきました。とてもいい思い出です。いつかこの浦和教会にも大勢子どもたちが来て、そのような事ができたらいいなと思っています。


 さて、本日の聖書箇所は教会が徐々に組織として形作られてきたときの話です。つまり、ペンテコステで聖霊が降臨し、主イエスの弟子達が彼らにとっては外国語、その当時外国からエルサレムに来ていた人々にとっては母国語を話しました。その後ペトロがこの現象の説明をし、証を立て、福音を宣べ伝えたところ、多くの人々が罪を認め、悔い改め、キリストを受け入れ、洗礼を受けました。

その後、使徒たちは福音を宣べ伝え続け、奇跡を起こし、人々がさらに彼らに加わり始めたということです。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」と使徒言行録4章32節にあります。

私はこの節を読むたびに初代教会の熱量といいますか、素晴らしさを思い浮かべるのです。特に素晴らしいのが「心も思いも一つにし、」というフレーズです。私達はこの初代教会が持っていたこのような熱量を果たして持っているだろうかと疑問に感じてしまいます。もちろん、この熱量というのは正確には彼ら自身が持っていたというよりかは、聖霊によって与えられたと考えられます。確か前回の説教で申し上げたのですが、あくまでもこの福音伝道は私達の福音ではなく、神の福音伝道です。ですので、神が主導し、私達はそれに参加するのです。そして、私達が参加するのに助けとなる、私達を導くのが聖霊なのです。それはこの当時も変わりありません。ということは当時の聖霊の働きは強く、現在のそれは弱いということでしょうか?確かにそうかもしれませんが、それは聖霊のせいでしょうか?そうではないと私は思うのです。

私達の求めがないからだと思うのです。ですから、聖霊もお応えにならないし、結果として熱量も少なくなってしまいます。私達にこの当時のキリスト者の人たちと同じように主を求める飢え、渇きを与えていただきたく思います。


 さて、彼らは主を求める飢え、渇きを持ちつつも、生活はある程度安定していました。どうしてでしょうか?

それは持ち物を共有していたからです。34節にこのように書かれています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」

 確かにこれはすごいことです。そうであれば、貧しい人がいないのも分かります。まさにこれこそが真の共同体です。ですが、これは難しいことでもあります。誰しもが自分の持ち物、財産というものを持ちたがるからです。

例えば、私達は教会という共同体にいて礼拝に参加しています。礼拝や交わりをしています。ともすればちょっとしたものの貸し借りや何か特別な時に食事やお菓子を作って教会に持ってきたり、お花を持ってきたりぐらいはするでしょう。しかし、自分の家や土地を売って献金をするという人はあまりいないと思うのです。


 もちろん、私はそれをしなさいと言っているわけではないのです。強制しているわけではありません。ですが、私達は神に試されることがあります。金持ちの青年の話はご存知でしょうか。金持ちの青年が主イエスの前に歩み出て、「永遠の命を手に入れるにはどうしたらよいか」と聞きます。ですが、その青年に対して主イエスは最初このように答えられました。「律法を守りなさい」と。

すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」です。青年は「そういうことはみんな守ってきました。」と言い、さらに「私に何か欠けた所があるでしょうか?」と質問したのです。その質問に対して主イエスは「もし完全になりたいと思うのなら、持ち物を全部売り払い、その売ったお金で貧しい人に施しをしなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」と仰いました。しかし、この金持ちの青年は悲しそうにして、その場を立ち去りました。お金を多く持っていたからです。

主イエスのこの言葉を聞いてみるとそんな馬鹿なと思われる方も多いと思います。確かに常識的に考えてみるとそんな馬鹿ななんです。ですが、主イエスの使徒と呼ばれた人たちは自分達の持ち物や職業を捨て、主イエスに従ったのです。そして、肝心なことはこの青年にとっては富が一番だったのです。それが彼にとっての偶像だったのです。本日の聖書箇所はこの青年よりも要求はされていません。しかし、それでも私達にとってこの当時の教会の信徒たちのように持ち物を共有するということは高いハードルです。ですが、私達は神から試されているのではないでしょうか?何が私達にとっていちばん大切なものかを?


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