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「刈り入れの時」

2022年11月20日 降誕前第5主日礼拝

説教題:「刈り入れの時」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 13章24節-30節(25㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は収穫感謝日礼拝です。実際の収穫感謝日は今月11月24日の木曜日なのですが、日曜日ではないので、このように近い日曜日にお祝いをし、礼拝しているということです。この考え方は別の記念日においても同じだと思います。例えば、私たちは先月、宗教改革記念礼拝を行いましたが、それは10月30日(日)でした。ですが、実際の宗教改革記念日は10月31日(月)でした。そして、毎年、クリスマス礼拝を行いますが、12月25日が日曜日ということはあまりありませんので、その日に一番近い日曜日にクリスマス礼拝をいたします。もっとも、12月25日の 平日にクリスマス礼拝をする教会もあるようです。

ですが、今年はなんと12月25日がちょうど日曜日ですので、その日にクリスマス礼拝を行うことが出来ます。素晴らしいですね。

 さて、収穫感謝礼拝です。実際の収穫感謝日ではありませんが、このように収穫を主に感謝することは本当に良かったと思います。

この収穫感謝日の起源はイギリスのキリスト教者の一派である清教徒(ピルグリムファーザーズ)と呼ばれる人々が信教の自由を求めて、アメリカのマサチューセッツ州にあるプリマス植民地に移住した事に遡ります。彼らは到着しましたが、現地の冬はとても厳しく多くの人々が亡くなられました。それだけでなく、現地人ともあまり関係が良くなく、いつ襲われるかという不安の中で生活しており、死体を埋葬することも出来ませんでした。食糧も少ない中いつ餓死してもおかしくない状態だったという事でした。しかし、そのような状況で、近隣に住む現地人のワンパノアグ族が彼らにトウモロコシといったその地でも育つ作物の栽培方法を教えました。そのおかげで彼らは生き延びることが出来たのです。


 敵だと考えていた現地人から生きる術を教えてもらったのです。彼らにとってみれば奇跡のような出来事であった事でしょう。この事を記念したのがこの収穫感謝です。私はこの話をする度に、何か旧約聖書に出てくる幾つかの物語を読むような気持ちにさせられます。すなわち、旧約聖書に出てくる信仰に生きた人々が数々の苦難に遭遇します。しかし、主が彼らを助けました。このピルグリムファーザーズもまたアメリカでの冬の気候という苦難に悩まされましたが、主によって救っていただいたのです。そして、旧約聖書に出てくる主に愛された人々のように苦難と主からの救いによって彼らの信仰は練られ、成長していったと考えられます。

パウロもこのように述べています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

(ローマの信徒への手紙5章3節から4節)

 さて、本日の聖書箇所です。主イエスは天の国をこのように喩えられました。ある人が良い種を畑に蒔いたが、人々が眠っていると、敵が来て悪い種を蒔いた。しばらくすると芽が出てきたが、良い物も出てきたが、悪い物(毒麦)も出てきた。僕たちが主人にこう問いかけました。畑には良い種をおまきになられたはずなのにどうして良い物ばかりでなく、悪い物も出来たのですか。主人は敵の仕業であると言いました。僕たちは畑に行って、悪い物を抜きましょうかと提案しますが、悪い物と同時に良い物も抜いてしまう可能性があるので、そうしなくて良いと言いました。そして、両方が育ちきり、刈り入れの時に良い物は蔵に入れ、悪い物は束にして燃やすという命令をこの主は僕たちにいたしました。

 先に私は収穫感謝の起源である清教徒達のピルグリムファーザーズの話をしました。確かに彼らの仲間が新天地での冬の気候に耐えきれず、亡くなられ、また現地人からの襲撃の不安の中で、敵であるはずの現地人から生きる糧の生産方法を教えてもらうというのは神からの恵みです。神に感謝すべきことです。そして、実際に彼らが蒔いたとうもろこしなどの種が育ち、刈り入れをした時の喜びはひとしおだったことでしょう。


 しかし、より大切なことは彼らの信仰の成長なのです。彼らがこの出来事を通して霊的に成長することなのです。彼らこそが生きる糧である、とうもろこしなどの穀物なのです。そして私たちもまた彼らと同じく、生きる糧であるとうもろこしなどの穀物と同じなのです。主は良い種を蒔かれました。福音です。果たして、私達はそれを受け止め成長しているでしょうか?それと同時に敵である悪魔は悪い種を世に蒔いています。果たして私達はその影響を受けて悪い芽を、悪い毒麦を生やしていないでしょうか?

 この聖書箇所の少し前にも主イエスは同じような種を用いた喩えとその解き明かしを話されています。マタイによる福音書13章1節から9節が喩えで、18節から23節がその解き明かしです。

この中で福音を聞いても、その福音が実らない人として挙げられているのが、自分の中に根がないので、福音を聞いて喜んで受け入れるが、患難などが来るとつまずく人、この世の思い煩いや富の誘惑で御言葉が実らない人です。悪魔はそういう人から福音を奪って行くという事です。そして福音を聞いて、その福音が実る人とは御言葉を聞いて悟る人という事です。そういう人の中でその福音は何倍、何十倍にもなると主イエスは仰られます。

 刈り入れの時は来ます。その時、私達は良い穀物となって蔵に収められるでしょうか?それとも束にされて燃やされるのでしょうか?私たちは福音を聞いて、悟り、私たちの中で福音の実が何倍、何十倍にもなっているでしょうか?それとも私たちの中に根がなかったり、思い煩い、富の誘惑を持っていて、御言葉が実らず、悪魔に奪われているのではないでしょうか?刈り入れの時は迫っています。

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