「十字架の勝利」
2022年4月3日 受難節第5主日
説教題:「十字架の勝利」
聖書 : 旧約聖書 哀歌 3章1-9節(1288㌻)
詩編 22章25-31節(853㌻)
新約聖書 マルコによる福音書 10章32-34節(82㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
哀歌とは読んで字のごとく哀しい歌です。バビロン捕囚の時代に作られたもので、ユダヤ人達が自分たちの悲惨な現状を嘆く歌です。自分たちの神である主によって苦しめられ、そして敵によって嘲られ、苦しめられているということを嘆いているのです。この歌を読んでみますと、いかに彼らが悲惨な状態であったかということがわかります。本日の聖書箇所では主によって苦しめられているということを切々と訴えています。平和の国日本で住んでいる私達はあくまで想像することすらなかなか難しいかもしれません。ですが、先日勃発したロシアによるウクライナへの侵攻、それに伴う民間人に対しての攻撃、病院への攻撃、ウクライナに住んでいた人々の一部を他の地域に強制的に移住させているというニュースを私達はテレビ、新聞、インターネットなどのメディアを通じて知りました。そのせいで、少しでもこの哀歌の作者の気持ちを想像することができるようになったと思うのです。
今、戦火の只中にいるウクライナの人々のことを考えると胸が痛みますし、そう思ってこの哀歌を読んでみますと、この作者に同情してしまいます。そして、この著者は本当に心休まる日がないのです。それは文章からわかります。2節から3節にかけて書かれている「闇の中に追い立てられ、光なく歩く。そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける。」という文章や7節から9節に書かれている「柵を巡らして逃げ道をふさぎ 重い鎖でわたしを縛り付ける。助けを求めて叫びをあげても わたしの訴えは誰にも届かない。切り石を積んで行く手をふさぎ 道を曲げてわたしを迷わす。」という文章は正にこの筆者がもうどこにも逃げ場のない状態であることを表しています。そして、いわば、手詰まり、人生詰んだという状態なのですね。このような状態で生きていくのは相当に骨が折れる事なのです。不穏なことかもしれませんが、もしかすると、この筆者が自ら命を絶ってしまったとしてもおかしくないかもしれません。
しかし、この著者はそのようなことをしなかったと思います。 本日の聖書箇所でないのですが、この著者は希望を表しています。それも単なる希望ではありません。主にあっての希望なのです。18節から36節に書かれています。だからこの筆者は絶望しないのです。現状を嘆きはするが、絶望して自ら命を絶つようなことはしないのです。たとえ、災いが主から来て逃れられないものであったとしても、主は必ず救ってくださるということを信じていたからです。哀歌は哀しみの歌であると私は最初に言いました。しかし、これは哀しみや嘆きの中から湧き出てくる神に対しての信仰と希望の歌であると思うのです。
詩編はどうでしょうか?詩編もまた自分の悲惨な現状を嘆く箇所が数多くあります。例えば、本日の詩編の聖書箇所の前の部分、2節から3節にはこのように書かれています。 「わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」 詩編の著者は自分がいかにひどい状態か、悲惨な状態かということを切々と訴えています。これは先程の哀歌の筆者に通じるものがあるとは思いませんか?詩編の筆者は8節から9節にかけて、そして14節から19節にかけても自分の窮状を訴えているのです。 さらにこの詩編の著者が訴える窮状の中に主イエスの十字架の苦しみを想起させる表現があるのです。例えば、2節に出てくる「わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉は主イエスが十字架の上で発した言葉「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と同様の言葉です。さらに8節から9節にかけて書かれている言葉「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」も主イエスが十字架で受けられた屈辱の一つです。さらに言えば、19節に書かれている「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」という言葉も主イエスの十字架で経験したものでした。つまり、この詩編の著者は自身の窮状だけでなく、後の世で起こる主イエスの十字架のお苦しみまで語っているのです。
ですが、この詩編の著者も悲惨な状況や不安を訴えるだけでは終わらないのです。神に対しての信仰と希望を持っているのです。本日の第2の聖書箇所、詩編22章25節から31節に現されています。25節、27節で著者は主による貧しい人々の救済を述べています。さらに28節には「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。」という言葉はマタイによる福音書28章19節から20節に書かれている言葉、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という復活された主イエスが弟子達に命じられたと言われる大宣教命令を思い起こさせます。さらに、使徒言行録1章8節で復活された主イエスが弟子達に仰られた宣言「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」をも思い起こさせます。
哀歌の著者も詩編の著者も自身の窮状を訴えている、そして嘆いている。詩編の著者は後の世の主イエスの苦しみまで預言している。しかし、そういった窮状の中で彼らは神に対する信頼と希望を切々と述べている。これこそが信仰なのです。中々できることではありません。普通であれば、自分の苦難を訴えて、早くこの苦難を取り除いてくれるよう訴えるだけ、もしくはその苦難を取り除く方法を自分で、もしくは他の人たちと相談してあれこれ考えるのが私達人間なのです。しかし、彼らは絶望的な状況の中、主に信頼し、主を待ち望んだ。頭が下がる思いです。
本日最後の聖書箇所で主イエスはご自身の死を弟子達に予告されました。これで通算3度目の予告です。しかもその死は安らかな死ではなく、祭司長や律法学者たちに逮捕され、異邦人によって侮辱されての死です。この事を主イエスは淡々と弟子達に語ったのです。普通自分が死ぬことを、しかもこのように悲惨に死ぬことを語れるでしょうか?しかし、主イエスは語ったのです。もちろん、主イエスに全く動揺がなかったわけではないと思います。例えばヨハネによる福音書12章27節で主イエスはこのように言われました。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」さらに、ルカによる福音書22章42節で主イエスはこのように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください。」 「心騒ぐ」「この杯をわたしから取りのけてください。」という言葉に主イエスの動揺を見て取れます。しかし、主イエスは弟子達にこれから起こる御自身の悲惨な死を語ったのです。それは父なる神のご計画に従うという意思だと思われます。しかし、主イエスが語ったのはそれだけではないのです。つまり復活です。それは主イエスの父なる神に対しての信仰です。哀歌の著者、詩編の著者が表した信仰と同じものなのです。そして、この復活こそが十字架の勝利なのです。そして私達はこの十字架の勝利により頼んでいるのです。苦難の中での哀歌の著者の信仰、詩編の著者の信仰、そして主イエスの信仰、そして十字架の勝利を私達は継承しているのです。
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