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「十字架の勝利」

2023年3月26日 受難節第5主日

説教題:「十字架の勝利」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 20章9節-19節(149㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 当時このパレスチナ地方でぶどうを栽培するというのはなかなか手間のかかる作業だったようです。城壁で囲み、井戸や貯水池を設けて、栽培の道具を置くための場所を用意しなければいけなかったようです。そのようにして栽培し始めるのですが、それでも4,5年目から収穫が始まるようです。ですからぶどう栽培というのは大変な作業であったと考えられます。ある意味、ふどうという果物を栽培し、集荷し、出荷し、そして収益を上げるにはわりにあわないものかもしれません。私はあまり農作業に関して詳しくはないのですが、これだけを聞いてみると、もっと楽に、つまり簡単に栽培出来て、直ぐに収穫できるような果物を作る方がよいのではないかとつい考えてしまいます。ですが、そういった手間ひまをかけて栽培するぶどうの喩(たと)え話が聖書にはよく出てきます。本日はそんな喩(たと)え話の一つです。


 「ある人がふどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。」と本日の聖書箇所ルカによる福音書20章の9節の途中から10節の途中までにあります。

その当時は資産を持っている実業家が農夫達にふどう園を貸して彼らに収穫をさせ、その全部でなく、一部を現物かお金で受け取ることが通例となっていたということです。ですので、主イエスのこの譬(たと)え話を聞いている民衆もそのようなイメージをもって聞いていました。


 しかし、ここからが普通と違ってきます。「ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」と10節の後半部分に書かれています。このふどう園を作った人はまず自分で、もしくは使用人か、もしくはお金で雇ってこのぶどう園を作りました。そして収穫の時が来たら、これこれこういう割合の収穫物か、その収穫物に見合ったお金を彼に納めるという契約を彼は農夫たちと交わして、旅に出たはずです。ですが、この農夫達はこの契約を破りました。破っただけではなく、彼らは僕に暴行を加えたのです。僕を暴行するということはその主人を暴行したということと同じことです。とんでもないことです。


 この僕の主人はこの時点でこの農夫たちに怒ってもいいと思います。自らこのぶどう園に乗り込んでいって彼らを成敗するなり、しかるべきところに訴え出て、役人なりがそこに出向き彼らを引っ捕らえるなりさせてもいいと思うのです。ですが、彼はそうはしないんです。また別の僕をこのひどい事をした農夫たちのいるぶどう園に送るんですね。ですが、またもやこの農夫たちはこの僕にその収穫物の一部を渡さず、暴行を加えるのですね。しかも侮辱をしたということです。どのような侮辱を加えたのかは定かではないのですが、この二人目の僕に行った事は最初に送られた僕よりも更にひどくなっているということです。


 しかし、まだこの僕の主人はこの農夫たちをあきらめないんですね。そして三人目の僕を彼らに送るのですが、この僕にも暴行を加えるのです。この僕に加えられた暴行というのがこれまでに加えられた暴行の中で一番ひどい事が表現から推察できます。

「これにも傷を負わせてほうり出した。」とあります。

(ルカによる福音書20章12節)

前二人の時には「袋だたき」という表現が使われていました。もちろんこの表現も「暴行」を加えるという表現で、あまり良いものではありませんが、「傷を負わせて」となると具体的になっています。さらに前の二人の僕の場合に使われた表現は「追い返した」です。ここから伺い知れるのはこの僕二人は暴行が加えられた時は立って歩くことが出来たということです。ですが、最期の僕に使われた表現は「ほうり出す」です。これはこの僕は立つことも出来ない状態であるということを表しています。


 僕を送っても、当然受けるべき物を受け取れず、暴行を受けて帰ってくる僕、しかもその暴行はエスカレートするばかりです。いい加減この僕の主人も激怒し、この農夫たちに懲罰を加えるべきだと思うのですが、驚くべき寛容さを彼は示します。

「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」と思い、彼は自分の息子を送り出すのです。ですが、農夫たちはこの息子を見て「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言って殺してしまうのです。


 ここで注目するのは暴行のエスカレートです。これまで農夫たちは僕達に暴行を加えてきたのですが、それが徐々にひどくなり、最期にはこのぶどう園の主人の息子を「殺し」、ぶどう園の外に「ほうり出し」てしまったのです。ひどい事です。

 さて最初にも申し上げたようにこれは主イエスが仰った喩えです。ここに出てくるぶどう園の主人は父なる神です。農夫たちはイスラエルの民です。僕たちは預言者達です。そして愛する息子は主イエスです。父なる神はイスラエルの民を選びました。それはアブラハム、イサク、ヤコブの選びから始まりました。そして父なる神はエジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を救い、約束の地に彼らを導き入れたのですが、彼らはずっと逆らい続けました。しかし、父なる神は慈悲深く、忍耐強く、彼らに預言者を送り続けましたが、彼らは聞く耳を持たず、預言者たちのある者には屈辱を与え、ある者には暴行を加え、またある者は殺しました。

この喩(たと)えでは僕は殺されてはいないのですが。

 そして奇しくも主イエスはご自身の死をこの喩(たと)えで予告されます。もちろん、私達は主イエスのこの予告が現実になることを知っているのですが、もう既にそのことを暗示することが書かれています。19節です。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」


 彼らは民衆が主イエスを神から遣わされた方だと思っていて人気があるので手にかけることが出来なかったわけです。それはまだ主イエスが十字架に架けられ、死なれるという時が来ていなかったのでそうなされた神のご計画だと思います。しかしここで明らかなことは主イエスがお語りになられた喩(たと)えに出てくる農夫たちがこの律法学者たちや祭司長たちであることをこの19節が証明しているのです。皮肉な事に彼らは主イエスが喩(たと)えで非難されている事を耳で聞きながらまさにそれをしようとしていたのです。ですがこの主イエスの非難に対しての怒りを収める事が出来ない。行動に移さなかったのは民衆は主イエスを支持していたからです。いわば保身です。


 主イエスが語られた喩(たと)えに出てくる農夫たちがぶどう園の主人の僕たちに行った暴行、嘲りの背景にあるもの、彼らが主人の息子を殺した背景にあるもの、イスラエルの民が父なる神に逆らい続け、主の預言者たちに行った暴行、嘲りの背景にあるもの、そしてそれらの事を喩(たと)えによってご指摘になられた主イエスを殺してしまおうと考えた背景にあるものは何でしょうか?それこそが罪なのです。主イエスは喩(たと)えでご自身の死を語られた後、このように仰ってます。

「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(ルカによる福音書20章15節から16節)

この「戻って来て、この農夫たちを殺し、」という表現はいささか過激であると考えるのですが、「ふどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」というのは事実のようです。これはどういうことかといいますと父なる神にユダヤ人たちは逆らい続け、預言者たちを否定し続け、主イエスの福音を拒み続けたので神の国と救いは福音を受け入れた異邦人のものとなるということです。      

 弟子たちは主イエスがこの喩えで仰った事を「そんなことはあってはならない」と言い、16節で否定します。彼らが倫理的理由でこの喩(たと)えを喩(たと)えとして否定したのか、それともこの喩(たと)えが表すものすなわちユダヤ人が父なる神と神が遣わされた預言者に逆らい続け、最期は御子を殺害し、父なる神が彼らに復讐し、神の国と救いが異邦人の手に渡ってしまうということを否定しているのかはわかりません。


 しかし、主イエスがこの喩(たと)えで仰ったことは事実です。使徒言行録をみればわかるように聖霊が降り、多くのユダヤ人たちが福音を受け入れましたが、やがてキリスト教徒への迫害が起こり、ユダヤ人たちより異邦人たちのキリスト者が多くなっていきます。パウロとバルナバはこう言い放ちました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」(使徒言行録13章46節)

 ですが、本日の聖書箇所、主イエスが仰った喩えは、イスラエルの民が父なる神、その父なる神から遣わされた預言者達、そして御子に逆らい続け、預言者たち、そして御子を暴行、冒涜、そして殺してしまったということ、その結果として救いと神の国が私達を含む異邦人に移ったという単純なものではないのです。主イエスの喩(たと)えに出てくる農夫たちの行為の背景にある罪はイスラエルの民の罪だけではなく、私達も持っている罪なのです。私達もそういう罪深さを持っているのだということをわからないといけないのです。そして父なる神の何度も僕達をそして最期には御子をも私達の許へ送られた私達への憐れみと愛を憶えないといけないのです。

そして、私達は私達の罪を贖ってくださった主イエスに感謝しなければならないと思います。

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