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「十字架の勝利」

2024年3月17日 受難節第5主日 

説教題:「十字架の勝利」

聖書 : ヨハネによる福音書 12章20節-36節(192㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 さて本日の聖書箇所の始めの部分20節から21節では興味深いことが書かれています。エルサレムに何人かのギリシャ人が来て主イエスに会いたいと主イエスの弟子のフィリポに願い出たということです。彼らはユダヤ教を信奉するギリシャ人であったのだろうと推察されます。「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」と20節に書かれています。つまりこのギリシャ人は過ぎ越しの祭りをするために、礼拝をするためにエルサレムに来たということです。だからこそ彼らはユダヤ教を信奉するギリシャ人であったのだろうと推察したのです。つまり異邦人のユダヤ教信者であったのだろうということです。異邦人のユダヤ教信者の例はまだあります。使徒言行録8章26節から39節にはエチオピアの宦官がエルサレムに礼拝に来て、帰る途中に霊に導かれたフィリポに洗礼を授けてもらう場面があります。

 さて本日の聖書箇所に出てくるギリシャ人達は異邦人ユダヤ教徒でありましたが、同時に主イエスにお会いしたいということでした。主イエスのご名声はユダヤ人のみならず、異邦人ユダヤ教徒の間にも轟いていたということです。

このギリシャ人達の申し出を聞き、同じ弟子のアンデレに話し、彼と一緒に主イエスに伝えたのがフィリポでした。先程申し上げたのですが、異邦人のエチオピアの宦官に洗礼を授けたのもこのフィリポでした。

 さて主イエスはこの事を聞いてこのように仰いました             

「人の子が栄光を受ける時が来た。」(23節)         

「人の子」というのは主イエス・キリストご自身の事です。そして「栄光を受ける時が来た。」十字架上で殺された後にご復活し、弟子達を含めたお知り合いにお会いになられ、天に帰られる事です。さらに言うならばご自身がご昇天された後、ペンテコステが起こり、そこから福音が世界中に広がっていくということです。つまりユダヤ人だけの救いではなく異邦人の救いです。ギリシャ人ユダヤ教徒が主イエスにお会いしたいということを受けての主イエスのこの御言葉ということに注目します。なぜなら、私達もまたこの異邦人の救いに預かっているのです。

 しかしこの23節で栄光を受ける前に主イエスが受けなければならないことがありました。それが24節です。これは麦の喩えですが、主イエスが私達のために十字架にお掛かりになられ死なれることを意味しています。栄光と試練です。栄光を受けるためにはご自身の死という試練を通らなければならないということを表明されているのです。さらにその事から私たちに対しても呼びかけています。主イエスは私達の救いのために御自分を犠牲にされました。そのように私達も私達自身を犠牲にして主を愛し、主に仕えなさいと仰っているのです。そうすることで永遠の命に至るということです。

27節では主イエスのご苦悩が垣間見れます。       

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」

「十字架に掛かり、苦しまれ、亡くなるということから救ってくださいと言おうか」ということです。当然です。何も好き好んでそんな死に方をしたいと思いませんね。実際主イエスはこの後もそのようなことを仰っています。ゲッセマネで主イエスはこのように祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイによる福音書26章39節)         

本文にもどって27節後半部分を見てみますと主イエスがその事つまり十字架上での死をお受け入れなさったことが伺えます。「わたしはまさにこの時のために来たのだ。」ここに主イエスのご覚悟が見えます。先程のゲッセマネの祈りでも主イエスはその後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」とあります。ここに主イエスの父なる神への従順があります。

 本文28節に戻りますと、ここで主イエスは父なる神に栄光をお現し下さいと願い、父なる神は答えられました。ここに御父と御子との交わりがあるのです。そしてそれが奇跡として29節の群衆の反応に現れています。もし主イエスが何者でもなければ起こらなかったことです。預言者エリヤとバアルの預言者との対決を覚えておられるでしょうか?イスラエルの民が偶像礼拝に走り、多くの主の預言者が殺された時に預言者エリヤがバアルの預言者と対決をしました。双方祭壇を築き、犠牲の牛を置き、人がその牛に火をつけずに神が火をつけ焼き尽くした方を本当の神とするという勝負です。バアルの預言者はずっとバアルに呼びかけ、自分の体を切り刻んだりして呼び求めますが、全く火が点く様子がありません。エリヤが呼びかけると天から火が下り、牛を焼き尽くしました。なぜでしょうか?それは主なる神と預言者との交わりがあったからです。それと同じようにいやそれ以上に父なる神と御子主イエス・キリストの交わりは強いものなのです。

 30節で主イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と仰いました。どういうことでしょうか?「わたしは父なる神を信じているし、わたしは父なる神からきた御子であることを知っている。しかしあなたがたは父なる神を信じていないし、わたしが父なる神から来たということを信じていない。だからあなたがたがこの奇跡この業を見て、わたしをそしてわたしの父なる神を、信じるようにこの奇跡この業が行われた。」ということです。

 主イエスは度々ユダヤ人達、特にファリサイ派の人々、律法学者たちと論争を持たれました。そして度々「わたしを信じなさい。」と仰り、「わたしを信じなくても良いからわたしの業を信じなさい。」とも仰いました。本日の聖書箇所に出てくる奇跡もそういう意味なのです。

 そして主イエスはこれから起こることを告げられます。32節はもうすでにお話したのですが、主イエスが復活され父の身許にお帰りになられた後、ペンテコステが起こり、福音が世界に伝えられ、主イエスを受け入れたすべての人は、それが異邦人であれ、主イエスの元へ、つまり天へ引き寄せられるということです。それは私達です。

 だからこそ私達はこの地上にあって光(主イエスを、主イエスの法)を信じ、光のあるうちに歩かなければならないのです。それは主イエスが35節から36節で私たちに仰っているからです。そして「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」と26節で主イエスが仰っているからです。

 

 主イエスは私達の罪の贖いのために十字架にお掛かりになられました。しかし復活され、死と罪を打ち破られたのです。十字架の勝利です。そして栄光をおびて父の身許に戻られました。私達はその事を信じているのです。そして私達は主イエスに属するものとされ、主イエスのご栄光を受け継ぐのです。

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