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「受難の予兆」

2024年3月3日 受難節第3主日 

説教題:「受難の予兆」

聖書 : ヨハネによる福音書 6章60節-71節(176㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 受難と聞くと私達は何を思い浮かべるでしょうか?会社を経営している人でしたら、会社の売上が落ちることを考えるかもしれません。またご自分が病気や怪我をするということを想像する人もいるでしょう。学生であれば試験であまり良い成績を取ることが出来ないということかも知れません。自分に何か良からぬことが起こることが受難です。そうすると様々なことが挙げられます。ですが今受難節にいる私たちにとって受難というと主イエス・キリストのご受難を思い浮かべると思います。すなわち、主イエスが逮捕され、辱められ、十字架に掛かられ、お苦しみになられ、殺されてしまうということです。

 ですが、それ以前にも主イエスのみ前に様々な良からぬことが起こってきたと思うのです。その最たるものがファリサイ派、律法学者たちからの非難や策略でした。彼らが主イエスを非難したり、策略によって貶めようとした理由というのは主イエスが彼らが正しいと考えているユダヤ教の律法に従わなかったからです。例えば主イエスは誰もが働いてはいけないとされている安息日に病気の人をお癒やしになりました。それが彼らが正しいと考えている律法に反していたのです。彼らの非難や策略もまた受難です。また主イエスの本当のご受難の前の予兆とも言えるかと思います。

 さて本日の聖書箇所です。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」

(ヨハネによる福音書6章60節)

どういうことかといいますと、この章の前の箇所での主イエスとユダヤ人たちとのやり取り(32節から58節)を弟子たちが聞いてこのようなことを言ったのです。

 主イエスはご自身を「命のパン」であると仰いました。(35節) その「命のパン」とは「天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)と仰いました。

しかし、ユダヤ人たちは主イエスが天から来たことを信じませんでした。

なぜなら、彼らはこのように言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(42節)

 彼らは人の目で物事を判断していたのです。そして場所もガリラヤ地方カファルナウムであり、主イエスの故郷であるガリラヤ地方のナザレに近い場所にあったので、彼らは主イエスの肉親を知っていたのです。この事が彼らが主イエスを信じることを妨げました。さらに言うならば彼らは父なる神に彼らを主イエスの元へ引き寄せて頂けなかったとも言えます。主イエスご自身がこう仰っているからです。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(44節)

 また彼らは主イエスが天から降ってきた、神から遣わされたことに反対しただけでなく、主イエスが「パン」であること、そして「彼らがそのパンを食べること」に対して反発しました。もちろん主イエスが命のパンであるというのは比喩です。すなわち、主イエスの元に来て、主イエスに学ぶことによって永遠の命をいただくことが命のパンを食べることなのですが、彼らはその事が分からず、言葉通りの意味に取ってしまったのです。                   

主イエスは仰いました。「しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(50節から51節)

 しかし、ユダヤ人たちはこのようにつぶやきました。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52節)

 随分と長く話してきましたが、このような主イエスとユダヤ人たちとのやり取りがあって本日の聖書箇所に入るということです。ユダヤ人たちが主イエスを理解しなかっただけでなく、弟子たちもまた理解しませんでした。理解しなかったばかりでなく、彼らは主の言葉を否定したのです。彼らの言葉を聞いてみましょう。

 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(60節)

 弟子たちからの否定というものは主イエスにとってどうだったのでしょう。もちろん、主イエスご自身は真理をお語りになっており、彼らが理解することができずに否定されていることはおわかりになってらっしゃったと思います。ですがやはりお辛かったのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは真理の言葉をお続けになられます。「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(63節から64節)

「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」(65節)

「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

 聞いている弟子たちにとってはさらにわかりません。さらにこの言葉「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。こういうわけで、わたしは『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」です。

 不満を抱いている弟子たちをなだめるでもなく、引き止めるでもなく、選ばれた者しか弟子になれないというような物言いです。離れたければ離れるが良いという感じです。当然、弟子たちからの反発が予想されます。まさに火に油を注ぐことです。案の定多くの弟子たちは主イエスから離れました。66節に書かれてる通りです。多くの弟子たちの反発と離反は主イエスに取ってお辛かったと思います。たとえ64節に書かれているように誰が信じないかを知っていたとしても。この事は主イエスにとってご受難であり、また本当のご受難、十字架での死の前の予兆です。主イエスは残った十二人の弟子たちに問いかけます。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)

 ペトロは答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68節から69節)

 素晴らしい言葉です。ペトロの「永遠の命の言葉を持っている」という言葉に注目です。「永遠」「命」「言葉」です。これらは主イエスが仰っていたことです。さらに「神の聖者」という言葉にも注目します。つまりペトロは主イエスが神から遣わされたことを「信じ」「知っている」ということです。主イエスが神から遣わされたことを否定した人々と全く違っているということです。つまりペトロと残った弟子たちはこの時点では父なる神から主イエスの元に来ることを許された人々ということになります。                      

ですがこの中でイスカリオテのユダは主イエスを裏切り、その他の弟子たちも主イエスが逮捕されると逃げ出してしまいます。ですから今回の弟子たちの否定と離反はやがて起こる弟子の裏切りと離反の前兆なのです。            

もちろん、ペトロを含め離反した弟子たちはご復活後の主とペンテコステによって力づけられ宣教をすることになるのですが。

 私達は主イエスの本当のご受難はもとより、この前兆、つまり主の弟子たちの否定と離反そしてそれに対しての主イエスのお苦しみも考えなければなりません。そのお苦しみを考えつつ、聖霊に導かれ、信仰によって歩めるよう祈ろうではありませんか。

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