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「受難の予告」

2023年3月12日 受難節第3主日

説教題:「受難の予告」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 9章18節-27節(122㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は大阪で行われた日本ナザレン教団の年会からこの浦和教会に無事に帰ってくることが出来、改めて主に感謝すると同時に、皆さんにも感謝いたします。本来であれば2020年に大年会が大阪で行われる予定でしたが、ちょうどその年がコロナ元年でした。そのせいで、大年会はキャンセルとなりました。その後は東京の目黒にあるナザレン教団の教団本部でごく限られた方々で年会が開かれていまして、その他の多くの牧師の方々と信徒代表の方々は委任状を教団本部に提出するという形を取っていました。

 しかし、ようやくそのような形ではなく、今までのように全国の牧師や信徒代表の方々が集まり、そして海外からグレーブス監督やマーク・ロー師を迎えての大会となりました。さらにインターネットでの配信という新しい試みもされました。


 このような大会に私が参加することが出来たことを主に感謝しております。また、3月5日の日曜日は私がこの浦和教会に遣わされてから、初めて主日礼拝の時に教会を留守にする日となりました。

準備はしていったのですが、少し不安もありました。ですが、主を信じ、皆さんを信じておりましたので最終的におまかせしました。そして本日皆さんとお会いしてその事が間違いでないということを確信しました。感謝しております。


 さて本日は主イエスと弟子たちの会話から始まります。主イエスが側にいた弟子たちに質問なさるのです。

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

(ルカによる福音書9章18節)

それに対して彼らはこの様に答えたのです。

「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

(19節)

 ここで重要なことは2つあります。1つはここで群衆が名前を挙げた「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「だれか昔の預言者」は皆、神から遣わされた人達であるということです。もう1つは彼らが人々から拒絶され、もうこの世にはいないということです。

洗礼者ヨハネはヘロデによって首をはねられ殺されました。

その時の経緯をお知りになられたい方はマルコによる福音書6章17節から29節に書かれています。また預言者エリヤは死を経験しないで天に上げられましたが、最終的に人々に拒絶されました。そして昔の預言者たちとは旧約聖書時代の主の預言者たちを指すのですが、彼らの多くは人々から迫害され、拒絶されました。

ですが神は奇跡によってこの中の誰かをよみがえらせて、伝道と奇跡をなさっているのだと群衆は考え、その様に噂(うわさ)したのです。

でなければ、主イエスがあのような奇跡を行えるわけはないし、あのような知恵や知識に基づいた説教を出来るわけはないと思ったからです。

群衆の主イエスに対しての噂(うわさ)はヨハネを殺したヘロデの耳にも届いたということです。(マルコによる福音書6章14節から15節)


 さて本日の聖書個所に戻りたいと思います。ルカによる福音書9章20節ですね。主イエスは弟子たちに再度問いかけられました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

この問に対してペトロはこう答えたのですね。

「神からのメシアです。」

メシアとは救世主であり、ヘブライ語では聖油を注がれた者(よく旧約聖書において叙任式で王が聖油を注がれる場面があります。サムエルがサウル王やダビデ王に注ぎました。)、そしてギリシャ語ではキリストを指します。キリストは言うまでもないですね。

実際、元の言葉のギリシャ語ではクリストχριστὸν、となっています。しかもただのχριστὸν ではないのです。クリスト トンセオ χριστὸν  τοῦ  θεοῦ 神のキリストです。

ですから主イエスは群衆が名前を挙げた預言者達のように神から来た方であることは当然なのですが、彼ら以上の存在なのです。

次に主イエスは弟子たちにこの事を誰にも言わないよう命じられたのです。主イエスのこのご命令は少し分からないです。主イエスはこの地上に神の御子として、宣教するために来られました。それなのになぜご自身の身分と権威を隠されるのか?

それは神のご計画、時、そして条件があるからではないかと思うのです。本日の聖書個所ではペトロの証「神からのメシアです。」だけで主イエスとの問答は終わっています。しかし、同じ出来事が述べられているマタイによる福音書16章16節に続き、主イエスはこの様にペトロに答えられています。「…『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」


 つまり、天の父から現されなければ、主イエスをメシアと証することは出来ないということです。これが条件ですね。

Iヨハネの手紙4章1節から2節にはこのように書かれています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊がわかります。」

つまり主イエスが神からのメシアであるということを確信を持って証しすることは「天の父」、「聖霊」の助けなしには出来ないということです。


 そして神の救いのご計画が整えられるまで、つまり、主イエスが私達の罪の贖いのため十字架にお掛かりになられ、殺され、復活され、多くの人々とお会いになられ、天に昇られて栄光を受け、そしてペンテコステによって聖霊が降るまで、主イエスは弟子たちにご自身が神のメシアであることを言わないように命じられたのだと考えられます。使徒言行録にはペンテコステの時の様子が書かれています。その時にペトロは主イエスの証を大胆にいたしました。2章14節から36節までです。神はペトロにこのようなご計画を持っていらしたということです。すばらしいですね。


 さて本日の聖書個所、ルカによる福音書に戻りたいと思います。9章22節からですね。本日の説教題は「受難の予告」です。主イエスは22節でご自身の受難の予告をまずなされます。そして次の23節でキリスト者の受難つまり私達の受難の予告もなされます。つまり2重の受難ですね。主イエスがお受けになられる受難として「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」と22節の途中まで書かれていますね。そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と23節の途中からありますね。


 一般的に見れば、これを聞いてこの人に従っていこうと考える人はあまりいないのではないかと思われるのです。なぜなら、リーダーである主イエスはこれから苦難を受けられて殺される。そしてそのリーダーについていく自分たちも何か良いことがあるわけではなく、何かつらそうなことが待っていて、しかも自由がない。そんな人生をどうして歩まなければならないんだ。

特に今の時代の方々はそのような反発を覚えられるかもしれません。なぜなら自由、権利、自己主張が間違った意味で使われているからです。例えば大手の寿司屋のチェーンストアでレーンを流れる寿司につばをつけたりしょうゆボトルの口を舐めたりし、それをインターネットに上げる行為が最近見受けられます。こういった迷惑行為または犯罪的行為といったものは昔からあったと思うのですが、今はインターネットの発達によってそれが拡散されます。しかし注目しなければいけないのはただ単にネットの発達というだけではないと思うのです。


 昔は悪いことはすればそれを隠していたんですね。もちろん、悪いことをすべきではないですし、それを隠すこともいけないことなのですが。しかし、最近では悪いことをしてそれを自慢する、インターネットに上げて、自慢するということなんです。つまり人の心がさらに悪い方へ行っているのでないかと思うのです。

そしてネットに上げた結果自分の名前、住所、学校、職場などが特定され非難され始めると今度はそのような社会的非難をしてはいけない、プライバシーの侵害であると主張し、マスコミもそれに同調してしまいます。確かにあまりにも行き過ぎはいけないのですが、元々の迷惑行為や犯罪的行為をしたのは彼らですし、インターネットに上げて、自分の姿をさらしたのも彼ら自身です。ですが、いざ非難され始めると今度は被害者のように振る舞うというのは如何なものでしょうか?そしてそれに世の中の人々も同調してしまう。


 このような世の中の人々にとって主イエスが唱(とな)えられる自己犠牲というものは笑い話でしかないのだと思います。だからこそこの世とキリスト者の価値観は対立するのだと思うのです。

23節の「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」の「自分」とは今私が話した「この世を満喫し、自己主張する自分」の事です。

24節の「自分の命」もまた「この世を満喫し、自己主張する自分」の事です。

25節では全世界を手に入れても自分の命を失っては、死んでしまってはその富を使うことは出来ないということですね。だからこの世で蓄えることは意味がないということです。主イエスが話された金持ちの農家の喩えはご存知ですか?彼は畑が豊作だった時、その作物が蔵に入りきらないのでもっと大きい蔵を建てて、その後自由気ままに暮らそうと考えた矢先、神に「お前の命は今夜取られる。」と言われてしまいました。エジプトの王様のピラミッドには多くの財宝が蓄えられていました。それは王が死後もその富を使えるようにするためということですが、それはあまりにも強欲というものではないでしょうか。


 だからこそ私達は選ばなければいけないのです。いわゆるこの世に迎合する生き方かキリスト者としての生き方かを?26節で主イエスが仰ったことがキリスト者として一番厳しいと思うのです。

「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

これはキリスト者として生活し、礼拝にも出席しているのだけれど、いざキリスト者でない人達、例えばキリスト者でない友人達の前に出ると自分がキリスト者であると言えない事を指しています。

これは本当にチャレンジであり、苦難でもあります。ですが、そのような苦難も含めて受け入れなければ、私達は本当の命を得ることが出来ないのです。私達は選ばなければいけないのです。この世に倣うのか?主に倣うのか?

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