top of page

「受難の予告と栄光」

2022年3月20日 受難節第3主日

説教題:「受難の予告と栄光」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 16章21-28節(32㌻)

        テモテへの手紙Ⅱ 1章8-14節(391㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 皆さんお気づきかもしれませんが、講壇の前に紫色の講壇掛けが掛かっています。キリスト教では紫色は償い、回心、待つこと、死者の贖罪、そして死者のための贖罪と祈りを意味します。ですので、紫は待降節(待つことですので)、死者のための祭典(前夜祭、告別式、召天者記念礼拝)、そして、受難節(四旬節とも言いますが)そういった時期に使われる色なのです。本日は 受難節の第3主日礼拝ですのでこの紫色の講壇掛けを掛けているという次第です。


 受難節というのは主イエスがこれからお受けになる苦難、つまりファリサイ派、律法学者達に捕らえられ、屈辱を受け、十字架に掛けられ、そして死なれるということを私達が想起する期間であるということは何回かお話してきましたが、主イエスはこの苦難を受けられる前に何度か彼の弟子たちにその事を話されております。本日の最初の聖書箇所もその場面です。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」と書かれています。(マタイによる福音書16章21節)

 

 主イエスが仰られたことは当然弟子たちに衝撃を与えました。もちろん、弟子たちは主イエスが仰られたことを正確には理解出来なかったとは思うのです。例えば「三日目に復活することになっている」というこの言葉は主イエスと行動を共にし、主イエスが行なわれた数々の奇跡を目の当たりにしてきた彼らでも理解できなかったに違いないのです。しかし、一つ確かなことは「主イエスが殺される。」ということであり、それは彼らに不安を与えたということです。だからこそ、弟子のペトロが主イエスを諌(いさ)めたのです。

 

 もちろん、これは人間的に言えば、弟子として正しいことだったでしょう。しかし、神の側からすると妨害ということになります。なぜなら、主イエスがこの世界に来られた目的はもちろんこの地上での福音・伝道なのですが、それと同じくらい重要なこととして、十字架の上に亡くなられ、人々の罪の贖いをするということもあったのです。さらに、主イエスは弟子たちがいざ事が起こった時に動揺しないため、その事を事前に知らせなければならなかったのです。これは父なる神が子である主イエスに与えられた使命なのです。ペトロはこれを妨害したのです。


 だからこそ、主イエスは激しい言葉でペトロを責めたのです。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書16章23節)

「サタン、引き下がれ」とはなんとも厳しい言葉です。そしてペトロにとってはショッキングな言葉であったと思うのです。なぜなら、本日の聖書箇所の前で(マタイによる福音書16章13節から20節)、ペトロは主イエスを「メシア、神の子」であると宣言し、自身の信仰を告白したのです。そして、主イエスは彼を褒め、「あなたは幸いだ。…あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とまで仰られたのです。しかし、今はこの仰られようです。ペトロにしてみたら、天国から地獄に突き落とされた心境だったのでしょう。


 そして、これはなかなか難しい問題なのです。なぜなら、ペトロのこの行動は人としては正しいのです。主イエスがこれから受ける患難と死を予告し、ペトロが「どうぞ、苦しまれて、亡くなって下さい。」と言ったとすると、弟子として、人としておかしいと言わざるを得ません。そして、私達は当然人として正しいことをしようとします。ペトロと同じようなことをしてしまいがちなのです。だからこそ、私達は神の前に正しい判断をするために、聖霊の助けが必要なのです。それは神に判断を委ねるということです。難しいことではありますが。


 主イエスはさらに続けます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」


 主イエスはまず自己犠牲を要求しています。これもなかなか私達にとって難しいことです。というのも、私達は自分自身を大切にするという考えを持っています。自己保身、または「人間誰しも自分がかわいいのだから」と言ってしまいますと、なにか悪いイメージがあるのですが、私達の中にこのような感情があるのも事実なのです。しかし、主イエスは言うのです。

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

これは何も「自分を大切にしなくて良い。」ということではないのです。優先順位を間違えてはいけないということだと思うのです。つまり、「主イエスが一番」にならなければならないということです。金持ちの青年はどうだったでしょうか?彼は律法を守っていましたが、最後に全財産を貧しい人に施して、主イエスに従いなさいと言われた時、従うことが出来ませんでした。それは彼の中の優先順位の一番が「富」だったからです。自分イコール富だったからです。そして、この金持ちの青年は富である自分を捨てることが出来なかった。富を捨てることは彼にとってつらいこと、苦難であったのです。ですから、主イエスが仰られた「自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従うこと」は苦難を受けることを意味します。


 主イエスはご自身が苦難を受け、殺されることを予告しただけでなく、主イエスに従う私達も苦難を受けると言っているのです。

この世的に判断すれば、苦難など受けたくないものです。人間誰しも楽をしたいものです。ですから、主イエスに「苦難を受けますよ、わたしに従いなさい。」と言われて、「はい、従います。」と 答えるのはこの世的に言えば、馬鹿らしいことなのです。

ですが、もしその苦難の末に私達がなにかを得られるとするならば私達は苦難を受け入れるものです。例えば、受験生は受験勉強をします。もちろん、受験勉強を楽しいと感じる受験生もいるでしょうが、たいていは辛いと感じる受験生が多いのではないかなと思うのです。北京オリンピックは終了しましたが、メダル獲得を目指して、その競技に参加された選手たちは練習を多くこなしたと思うのです。もちろん、彼らの何人かは練習が楽しいと感じたかもしれません。しかし、やはり練習はある程度の苦痛を伴うのです。受験生、そして運動選手にとって、受験勉強や練習は苦難なのです。しかし、彼らはそれを行うのです。なぜでしょうか?それは目的があるからです。その苦難の先に何かがあるのです。それは何でしょうか?それは命です。ですが、それは神から与えられる命です。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と主イエスは言われました。

これは何も殉教を推奨するものではないかと思います。   


「自分の命」とは先程私が言ったところの「自分」だと考えます。「今、自分にとって最も優先度の高いものを主イエスに置き換えなさい」と主イエスは迫っているのです。そうすることで、私達は神から本当の「命」と「栄光」が与えられるのです。今、私達が持っている命とはなんでしょうか?あの金持ちの青年のような「富」でしょうか?もちろん、現実問題、私達が生きていく上である程度の「富」は必要です。しかし、それに固執するとそれが私達の「命」になってしまいます。そして、本当に大切なものを見失ってしまうのです。26節で主イエスは言われました。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」

 この節は私に2つの事を思い出させます。1つ目は主イエスが語られた愚かな金持ちの喩えです。ある金持ちが豊作であったが、蔵が小さくて作物を全部しまっておけなかった。だから彼はその蔵を壊して、もっと大きい蔵を建て、そこに作物や財産をしまい、食べて、飲んで、人生を謳歌しようとした。しかし、神は彼に彼の命が今夜取り去られると告げた。彼の優先順位が「富」であった者の末路です。私が思い出す2つ目は世界に存在した支配者と呼ばれた人々です。彼らは世界の全部とまではいきませんが、ある程度を支配しました。しかし、人間である限り、死はすべての人に訪れます。そして彼らもまた例外ではありませんでした。ですが、彼らは永遠の命を求めたり、死んでもなお寂しくならないように、墓に財宝などを埋めさせるよう命じたりしたのです。今、ある国(ある人物)が他国に侵攻していますが、この26節の主イエスの言葉はどのように彼に響くのでしょうか?


 ですから、私達は彼らのようであってはならないのです。私達はお金持ちでないから大丈夫だと思われるかもしれませんが、私達は彼らほどでないにしても私達なりの「自分」「自分の命」を持っています。それが「富」であるか「富」でないか、大きいか、小さいかの違いだけなのです。ですから、私達はこの「自分」「自分の命」に注意を払い、主イエスを「自分」「自分の命」にして頂けるよう神に祈り、聖霊に働いていただかなければなりません。それには苦難が伴います。

 

 本日の第2の聖書箇所で弟子であるテモテに「神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んで下さい」と書き送っています。なぜ、パウロはそのように言うことが出来たのでしょうか?それは彼が確信していたからです。神のご計画と恵みによって救われたこと、主イエスが死を滅ぼし、福音により、不滅の「命」を現されたこと、そして彼が主イエスを信頼していることです。私達もまたこのパウロが確信しているものを信じ歩んでいこうではありませんか。たとえ苦難を伴ったとしても。神からの命、そして栄光を得るその時まで。運動選手が賞を獲得する時まで練習し、競技するように。

Comments


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
bottom of page