「命のパン」
2023年4月30日 復活節第4主日
説教題:「命のパン」
聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 16章4節-16節(119㌻)
新約聖書 ヨハネによる福音書 6章34節-40節(175㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
生きていく上で衣食住というものが必要だということを私達はよく知っています。特に食べていくことは死活問題です。本日の聖書箇所はそこに関わることです。出エジプト記はエジプトの地でイスラエルの民達が奴隷として虐待されていました。元々彼らはヤコブの息子たち家族から出たものです。彼らは神の見えない御手によって導かれてカナンの地からエジプトの地に移住しました。
詳細は長くなりますので、ここでは詳しくは述べませんが、創世記37章、39章から50章に書かれています。そしてその家族から出たイスラエルの民がエジプトの王ファラオを含めたエジプトの民に驚異と映ったために虐待されていたのです。
しかし主はその状況を見て彼らを哀れまれたわけです。なぜなら、イスラエルの民は神の民だからです。神は遠い昔、彼らの先祖であるアブラハムを選び、彼が住んでいた土地を離れ、彼にある場所に行きなさいと仰いました。そしてアブラハムと彼の家族はそこに住みました。そして彼の子孫であるイサク、そしてヤコブもそこに住んだのですが、先に述べた創世記37章、39章から50章に書かれている事情によりエジプトに移り住んだのです。しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブに約束なさいました。豊かなカナンの土地に彼らを導くということをです。
ですので、主はこの約束を守るため、そして御自分の民がエジプト人に酷い目に合わせられているのを見て、哀れみ、モーセというリーダーを立て(召命し)、様々な奇跡でエジプトを懲らしめ、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、連れ出したのです。彼らは奴隷の惨めな状態から解放されたのです。
彼らの喜びは大変なものでした。エジプトの軍隊が彼らを再び奴隷にするために追い迫った事がありました。皆さんも何度も聖書を読み、説教で聞き、そして映画などで見たかもしれないあの場面です。モーセが杖を上げ、主が海を割り、イスラエルの民が乾いた地を渡ったが、その後から追い迫ったエジプトの軍隊はモーセが杖を下ろすと海が元に帰り、溺れてしまったというあの場面です。
出エジプト記14章1節から31節に書かれているのですが、その最後の31節にこう書かれています。「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」そして続く15章の1節から21節で彼らは歌を歌い、主を賛美したと書かれています。素晴らしいことです。
ですが、一変して彼らは食べ物の事で不満をモーセとアロンに述べます。食べ物がないということです。確かに彼らの主張は最もなことです。人間食べなければ死んでしまいますから。
ですが、彼らの言い分に注目します。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
(出エジプト記16章3節)
先程から何度も申し上げているように、食べることは死活問題です。彼らがパニックになっていたということもわかります。ですが、彼らの言い分、つまり「エジプトで主に殺されていたほうが良かった。」、「肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた。」といった不平はあまりにも主に対して失礼ではないでしょうか?
主は彼らがエジプトで奴隷の状態でひどい目に遭わされているのを助けたのです。ですが、彼らはその状態の方が良かったというのですから。もちろん、彼らにも言い分はあるでしょう。「だったら、奴隷の状態から彼らを解放するだけでなく、ちゃんと食べるもの、飲むものを与えてくださいよ。」ということです。
しかし、主は彼らを試されているのです。それが本日の第一の聖書箇所です。それは主がモーセに仰せられた言葉でわかります。
「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」
(出エジプト記16章4節)
主はなぜ私達を試すのかと思われるかも知れません。特に死活問題の食べ物で私達を試すなんてひどいじゃないかと思われるかも知れません。しかし、私達はそういう試みを通して私達の信仰が成長していきます。この様な神からの試みは多くの信仰者に与えられてきました。アブラハム、ヨセフ、など挙げれば切がありません。それはヘブライ人への手紙11章に書かれている信仰に生きた人物を見ればおわかりになるでしょう。そして神の御子である主イエス・キリストも荒れ野での40日間の試み、そしてその後この地上において伝道をなさっていた時の敵対者からの試み、そして最後の十字架での試みをご経験されました。
ですから、主は私達を試みられるということを私達は受け入れなければならないのです。もちろん、主の祈りで私達は「我らを試みにあわせず、」と祈ってはいるのですが。ですが、私達は人間として不平を言ってしまうのです。そしてイスラエルの民もそうでした。彼らはモーセとアロンに対して不平を言いました。しかし、それは同時に主に対しての不平です。モーセとアロンがイスラエルの民にこう言っているからです。
「あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
7節の中程からです。
ここでモーセとアロンは「主に向かって不平を述べるのを」と言うと同時に「我々に向かって不平を述べるのか。」とも言っています。モーセとアロンは主が民の上に立てたリーダー達です。そして、彼らは主に従って行動していました。その彼らに対して不平を言うということは主に対して不平を言うということです。
この事は別の聖書の箇所でも言えます。例えばサムエルというイスラエルの裁き司がいました。彼は主に愛され、とても優秀な正しい裁き司でしたが、彼の子ども達は不正をしました。ですので、イスラエルの長老たちはサムエルに彼らを裁く王を立てるよう願い出ます。もちろん、一般的に見れば彼らの申し出は至極正しいものだと考えられます。しかし、サムエルの目にはこの長老たちの申し出は悪と映りました。そして主にとってもこれは悪と映りました。彼らは彼らのリーダーであるサムエルを退けようとしたのです。それはイスラエルの民がモーセとアロンに対して不平を言ったことと同じです。
サムエルが主に祈った時、主はこう仰せになりました。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」
(サムエル記上8章7節)
本日の聖書箇所の出エジプト記16章8節でモーセが民に言ったことは主がサムエルに言ったことと同じです。
「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
つまり、主は民の訴えを聞き、肉とパンを与えるとモーセは言っているのです。それはサムエルが民の訴えを聞き、王を立てる事を認めた事と同じです。
しかし忘れてはいけないことが2つあります。それはイスラエルの民が主がお立てになられたリーダーたち例えば出エジプト記の時代であれば、モーセもしくはモーセとアロン、サムエル記上であれば、サムエルというリーダーを排斥しようとしたこと、そしてそれは主を排斥しようとしていたということだ、ということです。
もう一つは私達は試されているということです。実際モーセがイスラエルの民に言われたように天からパンがというよりパンのようなものが下ってきました。人々はそれをマナと言いましたが、それを一日分だけ取って食べるようにモーセは民に言いつけましたが、ある人々はそれを翌日まで残しておき、それは腐ってしまったということです。そしてモーセは彼らに怒りました。
どうしてでしょうか?主はこの民の不平を聞いた時モーセとアロンにこのように仰いました。4節です。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」
ですが、民はものの見事に主の試しに落ちてしまいました。
確かにこれは厳しい試しです。最初に食べ物がない荒れ地で主に不平を言うかどうか、主が立てられたリーダーのモーセやアロンに対して不平を言うかどうか試されましたが、民はこの試みに打ち勝つことが出来ませんでした。さらに主が与えた食べ物に対しての規定つまり毎日必要な分だけ集めよというご命令にも従わず、ここでもこの試みに失敗しました。
ここで大切なことは何でしょうか?食べ物ではありません。もちろん食べ物は大切なのですが、主に従うことであり、主が立てられたリーダーに従うことです。
本日の第2の聖書箇所ヨハネによる福音書6章35節では主イエスはご自身を命のパンであると仰いました。もちろんこれは比喩なのですが。パンというものは私達に栄養を与え、飢えを満たすものです。私達が生命活動をするのになくてはならないものです。主イエスは私達に霊的な栄養を与え、霊的な飢えを満たす方です。そして主イエスは十字架の上で私達の罪の贖いをし、復活されました。それだけでなく、私達をも復活させると言っているのです。しかし、私達に必要なことは何でしょうか?主を信じることです。
「わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)
「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」(36節)
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(40節)
出エジプトではイスラエルの民はモーセとアロンに不平を言いました。それはとりもなおさず主に不平を言ったということです。
それは主を信じなかったということです。サムエル記上でイスラエルの民は王を要求しました。それは裁き司サムエルを信じなかったのです。それは主を信じなかったということです。
イスラエルの民は「私は命のパン」であると仰った主イエス・キリストを信じませんでした。それは主を信じなかったということです。
ですが、私達は主イエスを信じましょう。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネによる福音書1章11節から13節)
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