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「命の糧」

2024年7月21日 聖霊降臨節第10主日 創立記念日

説教題:「命の糧」

聖書 : 列王記上 17章8節-16節(561㌻)​​​

​   ローマの信徒への手紙 4章13節-25節(278㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 食べ物と飲み物は私達が生きていくのに必要だということを私達は知っています。それは昔から変わりません。ですから聖書にはよくそれらの話が出てきます。例えば出エジプトでエジプトの奴隷の状態から主によって助けられた人々が食べ物がない、肉がないと不平、不満を言い、それらをモーセとアロンに要求した時、主はその事を聞き、天から彼らにマナを与えました。またうずらも与えました。出エジプト16章と民数記11章に書かれています。         

また同じく彼らが飲み水がないと不平、不満を言った時、主はモーセに杖で岩を打つよう命じ、モーセがそうすると水が湧き出ました。この事は出エジプト17章1節から7節、そして民数記20章2節から13節に書かれています。


 新約聖書では主イエスが大勢の人々に食べ物をお与えになられる話が有名です。五つのパンと二つの魚で五千人の食欲を満たした話がありました。

(マタイによる福音書14章13節から21節)   

そして七つのパンと少しの魚で四千人の食欲を満たした話もあります。

(マルコによる福音書8章1節から10節)

 これらは主の奇跡によって実際に食べ物が与えられた話です。 

本日の最初の聖書箇所も主の奇跡によって食べ物が与えられた話です。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」という主の言葉が預言者のエリヤに臨みました。まず初めにどういう状況でそういう事になったのかを説明しなければなりませんね。エリヤといえば主の預言者です。つまり預言者が活躍していた時代の話だということを思い浮かべてください。もう何度か言ってきていますが、預言者が活躍するということは民が主に逆らっていたということです。そして国内には不正が満ち溢れていたということです。  


 さてイスラエルの王アハブという人物がいたのですが、この人も相当に主の前に悪を行っていたということです。それは列王記上の16章29節から33節に書かれています。結果として主はイスラエルに罰を与えることにしました。それが数年間露も雨も降らないというものでした。それを預言者エリヤを通してアハブに伝えたということです。(列王記上17章1節)当然のことながらイスラエルに住んでいる人々もこの干ばつによって疲弊いたしました。飲む水がなくなるわけですし、雨が降らないことによって作物も育たなくなり、家畜も育てられなくなるわけです。水と食料がなくなるわけです。統治者である王アハブも困るわけです。

 この状況を見て何かを思い出しませんか?出エジプトです。   

エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を救うため、主がモーセの前に現れました。モーセとアロンは主のメッセンジャーとしてエジプト王の前に行き、民を解放するよう王に言いますが、心を頑なにされた王は民を出ていかせず、民にさらに苦役を課します。その後主はエジプトに様々な災害を与えました。主に逆らった行動を取り続けたアハブ王をはじめイスラエルの民、そしてそれ以前の王族およびその民のせいで、この干ばつの害がイスラエルに下されたのです。

 しかし問題が一つありました。エリヤです。エリヤもここに住んでいたのでその害を受けてしまうはずでした。しかしここで主はエリヤをお救いになられます。主はエリヤに仰いました。    

「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(列王記上17章3節から4節) 

エリヤは当然のことながらアハブから命を狙われていたので身を隠す必要がありました。そして飲み水と食料が必要でした。それらを主は用意されていたのです。イスラエルの国が干ばつでしたが、その川の水はまだ干上がっていなかったのでエリヤはその水を飲むことができました。さらに驚いたことに数羽の烏がエリヤに朝、夕パンと肉を運んできたということです。まさに奇跡ですね。これが主がエリヤに水と食料を与えた第一の奇跡です。ですがやがてその川の水もその地方に雨が降らなかったので干上がってしまいました。さて主はこれでエリヤを養うのをやめてしまったでしょうか?そんなことはありません。主はちゃんと彼に対しての計画を持ってらっしゃいました。

 それが今日の第一の聖書箇所です。主はエリヤにこう仰いました。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」

(列王記上17章9節)

 ここで少し変に思われるかと思います。それはやもめにエリヤを養わせるということです。この時代やもめは社会的弱者でありました。ですから律法でもやもめを苦しめてはならないと規定されています。ですから社会的裕福な人ではなく社会的弱者であるやもめにエリヤを養わせるとはおかしいと思うのです。さらに言うならばこの人には息子がいたということです。ですから彼女を取り巻く社会的、経済的状況はさらに逼迫していたということです。そんな状況の人に何でエリヤを支えさせようとするのか理解できません。


 ですが、主のご命令です。エリヤは従います。エリヤはこのやもめを見つけ、彼女に声をかけ、最初に水をそしてパンをいただけないかと尋ねます。彼女はエリヤに答えるのです。パンはありませんと。一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけと。そして彼女は薪を拾ってきて彼女と彼女の息子の食べ物を作り、それを食べたら死を待つばかりだと。

 状況は切実です。もう彼女たちは食べ物がなくなりかけ、その僅かな小麦粉で出来た食べ物を食べたら死を待つばかりだということです。果たしてこのような状態の親子に大の大人であるエリヤを養わせるなんて主よちょっと無慈悲じゃないんですかと人間的な感情でいえば言ってしまいそうになります。ですが、エリヤもまた主に負けず劣らず少し無慈悲な事を言うんですね。

「だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」(列王記上17章13節)

 ですが、それだけで終わらないんです。

「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」(列王記上17章14節)


 実際彼女がエリヤの言う通りにすると、主の御言葉のとおり、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」そして彼女と彼女の息子そしてエリヤは幾日も食べ物に事欠かなかったということです。


 ここまでわかったことが幾つかあります。まず主は主に逆らう人々に罰を与えるということです。それはイスラエルに与えた干ばつであり、古くはエジプトに与えた災厄です。しかしその中でも主はご計画に従って救われる人を救うということです。預言者エリヤがそうですし、エリヤを養うやもめとその息子もそうですね。彼女はエリヤを養うために立てられましたが、彼女と息子は主によって主のご計画によって救われ、養われたわけです。そして彼女と息子、そしてエリヤとその他のイスラエルの人々には明確な壁があったということです。エリヤたち以外はこの干ばつによって苦しみ、死んだ人々もいたことでしょう。これは主によって定められました。


 出エジプトでエジプトに災厄がもたらされた場面があります。その時にイスラエルの民とエジプトの民との間に明確な壁がありました。それは災厄はエジプトの民や財産を襲ったが、イスラエルの民や財産を襲わなかったということです。例を挙げましょう。   

主は疫病をエジプトの家畜に生じさせたが、イスラエルの家畜には生じさせませんでした。これは出エジプト9章1節から7節に書かれています。さらに主は雹を降らせエジプトを打ちましたが、イスラエルの人々が住むゴシェンの地域には降らせませんでした。(9章25節から26節)

 さらにエジプトの地を暗闇が覆い、人々は互いが見えなくなったが、イスラエルの人々が住んでいる所には光があったということです。(10章21節から23節)


 そして最後にエジプト人の初子だけ殺されるという災厄が起こりました。

(11章1節から7節、12章29節から30節)

 さてこの社会的弱者であるやもめにエリヤを養わせる理由ですが主の力は弱い人々を通して、弱さの中で現れるということではないでしょうか?まさに食べ物がぎりぎりで死を待つしかない親子でしたが主は彼らをエリヤを養う器として選び奇跡を起こしました。主イエスもこの地上で伝道をなさっていた時は社会的弱者と交わりを持たれました。何かのトゲを与えられたパウロはこのように言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

(IIコリント12章9節から10節)

 最後に主はエリヤやこの親子のために実際の命の糧をお与えになられるということです。

 さて本日の第2の聖書箇所です。主は実際の命の糧だけでなく霊的な命の糧もお与えになられるということです。それが信仰を通しての恵みによる義です。その義によって私達は世界を受け継ぐのです。それは神の国にはいるということです。この聖書箇所では律法と信仰について語られています。まず初めに「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、」とローマの信徒への手紙4章13節にあります。ですがそれは律法によって私達はアブラハムの子孫になるのではなく、信仰によってなるのです。信仰を通して恵みによって神の義、霊的な命の糧が与えられるのです。


 主は実際の命の糧と霊的な命の糧をお与えになられます。この主を信頼し、キリストを信頼し、聖霊の導きによって歩んでいきましょう。

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