「命の言葉」
2021年5月2日 復活節第5主日礼拝
説教題:「命の言葉」
聖書 : 旧約聖書 申命記32章46-47節(335㌻)
新約聖書 ヨハネによる福音書6章63節(177㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
言葉というものはとても大切な物です。言葉の使い方を間違えると誤解されたり、恥をかいたりします。また、言葉は人を傷つけもしますし、人を元気にもします。人を生かしもすれば殺しもします。匿名での誹謗中傷、言葉によるいじめは人を傷つけ、場合によれば、言われた側の人間が命を断つかもしれません。また、むなしい言葉も存在します。その言葉を発している当人は相手に届いていると思っているのですが、その実届いていない。相手に響いていないのです。あまり、世間的な事を言うべきではないのかもしれませんが、政府関係の方々、地方公共団体の方々が私達国民に対して、「不要不急の外出はしないでほしい」「会食はしないでほしい」とお願いしても、当人達がそれらの行為を行い、発覚しても反省もせず、「マスクをしているから大丈夫」「政治家にとって会食(政治パーティ)は必要だ」と言われるのであれば、彼らの国民に対する言葉は響きません。むなしい言葉です。私達は言葉の使い方、人を生かしもすれば、傷つけもする言葉の力、そしてむなしい言葉を使ってしまわないように注意しなければなりません。
では逆にむなしくない言葉とはどういう言葉でしょうか?巷には自己啓発の本が溢れていて、仕事や生活にそれらを活用する方もいらっしゃることでしょう。また、過去や現在の偉人、例えば有名な政治家、経営者、科学者、スポーツ選手、文化人が書かれた本や言葉を参考に自分の人生を生きていく方もおられるかと思います。確かに自己啓発本や偉人達が書かれた本を読むことは自分の人生の参考になるかもしれませんが、私達キリスト者にとって、本当に生きる糧となる言葉、むなしくない言葉は聖書の中にあると思います。
モーセはイスラエルの会衆にこう言いました。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」(申命記32章46節から47節)
申命記という箇所はモーセが亡くなる前にイスラエルの会衆に語った遺言書のようなものです。内容としましては律法、勧告、モーセの後継者としてヨシュアの任命、祝福などです。ですが、主に律法と勧告です。律法と勧告と聞くとなにか重いイメージです。なぜなら、「〜してはいけない。さもないと罰が与えられる。」ということだからです。人間というものは自由を求めるものですので、やはりこれは避けたいと思うのです。しかし、一見すると人を束縛する否定的なイメージの律法と勧告をモーセは「むなしい言葉ではない」「あなたたちの命である」とまで断言しています。確かに人間は自由を求めますが、何をもって自由と言うのでしょうか?自分が好き勝手に生きることが自由でしょうか?本当に自由とは神の元での自由ではないでしょうか?モーセが語った律法と勧告は神の元で自由に生き、そして平和に生きていくために必要な物でした。まさに、むなしい言葉ではなく、命でした。イスラエルの人々がそれに従っていれば、神の元で自由に、平和に生きることが出来たのです。モーセもそう願って語ったのです。
しかし、彼らは逆らいました。モーセ亡き後、ヨシュアが継ぎましたが、ヨシュア亡き後、イスラエルの会衆は神に逆らい、命の言葉であるモーセが語った律法と勧告に聞き従わず、他の神々に仕え、神を怒らせました。神は彼らを敵の手に渡され、彼らは支配され、不自由な生活を強いられました。そして、神に助けを求め、神は士師というリーダーをイスラエルの民から立てられ、民を敵の手から救われましたが、一旦救われると、また神に逆らい別の神々に仕え、神の怒りを引き起こすという悪循環が繰り返されました。この事は士師記に書かれています。さらに、言うならば、ダビデ王、そして彼の息子であるソロモン王の時代にイスラエルは国として確立されますが、ソロモンが晩年になり、神に背き、他の神々を礼拝したため、神は怒られ、ソロモン王の子ヤロブアムの時代に王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂し、それぞれの国の王と国民は神に背を向け、他の神々に仕え、国内には不正がはびこりました。そのような時代であっても、神は彼らをあわれみ、多くの預言者を送り、彼らを悔い改めさせ、神に立ち返らせようとしました。彼らは一時的に悔い改め、神に立ち返ることもありました。しかし彼らは神に逆らい続け、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国は紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされました。民はバビロニアに連れて行かれました。バビロン捕囚と言われる出来事です。
なぜ、イスラエルの民はこのような悲惨な目に合い続けたのでしょうか?答えは明解です。彼らが神から離れたからです。モーセは彼の遺言とも言うべき申命記で神の律法と勧告をイスラエルの民に与えました。それらはむなしい言葉ではなく、命の言葉でした。しかし、彼らはその命の言葉を捨て、神に逆らい、別の神々に仕えたのです。彼らは神の元から離れ自分の思い通りに生きようとし、別のむなしい神々や別の国に頼りましたが結果は見るも無残な状態でした。神に束縛されたくない、自由に生きたいと思った結果が他の神々や他の国によって束縛される。もしくは他の国によって滅ぼされる。皮肉としか言いようがありません。しかし、私達にも経験があるのではないでしょうか?私達も神から離れて自由に生きたいと思うことはないでしょうか?確かにそれは一見すると魅力的な事です。一時的な開放感が得られるかもしれません。しかし、神から離れて生活していると、様々な事によって束縛されていることに気づくのではないでしょうか?周りの人間関係、仕事関係などです。もちろん、信者である私達であっても、この様な関係はついて回ります。しかし、神から離れ、生活していると、周りの人間関係、仕事関係だけが全てになってしまうのです。
旧約聖書の時代の命の言葉とは申命記でモーセが語った神の律法や勧告でした。では、新約聖書の時代の命の言葉とは何でしょうか?それは主イエスの言葉です。主イエスはこう言われました。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
主イエスが話された言葉、主イエスの教えは霊的な糧を私達に与えます。そして私達に命を与えます。主イエスの言葉や教えから離れるということは旧約聖書時代にモーセが語った神の律法や勧告から離れることと同等もしくはそれ以上の事だと思います。なぜなら、主イエスは律法を完成させた方、律法以上の方だからです。
そして、主イエスご自身が命の言葉とも言えるのです。ヨハネによる福音書は擬人的手法が使われていて、他の三福音書であるマタイ、マルコ、ルカとは少し趣が異なる不思議な福音書です。ヨハネによる福音書1章1節から4節、10節から12節では主イエスが言(言葉)として表現されています。私達はこの命の言葉である主イエスから離れてはなりません。主イエスご自身がこのように言っているからです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」マタイによる福音書11章29節です。そして「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」ヨハネによる福音書15章5節から6節です。命の言葉である主イエスから離れず、繋がっていられるよう祈りましょう。
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